友が家を出て行ってすぐ、まずは部屋の掃除から始めた
別に彼女をこの家に再度迎えるわけではないが、お世話になった家だ
ほら、立つ鳥後二五作って言うだろ?
……こういうのは一人でやるもんじゃないな。かといって友やあいつらが間違いに気づいてくれるかどうか不安だけど
ともあれ汚部屋と化した魔窟を掃除するのは一苦労で、特にスープが溢れて乾いたシーツなんかはもう、一目で諦めた
時期が良くて助かった。夏だったら俺はゴキりんに食い殺されてたかもしれない
掃除を終わらせて次に風呂へ入った
そのへんのホームレスに負けない腐った体を熱心に洗い、一月分の汚れを落としていく
久しぶりの風呂は格別だった
俺は綺麗好きとは思っていなかったけど、かといって汚れ好きでもなかったらしい
自分の体が清潔だという感覚が、胸を張れるほど気持ちいい
パチンカスだった俺だが、彼女に出会ってからは行かなくなっていたので、貯金というものがあった
といっても大した額ではないが、それでも今の俺には充分な額だ
大きめのボストンバッグに服と下着、スマフォの充電器などの必需品も詰める
カメラは別のポーチに入れて腰に巻いた
服装は普段通りでいいだろう
俺が今まで間違えていたことを、まずは一つ正そう
六畳一間の小さな部屋は狭い空間で、小奇麗になっていた
電気屋で値切り倒したテレビや量販店で購入した壊れやすい収納ボックス
お世話になったのは、なんだかんだで一年足らずとなってしまったけど、ありがとうと頭を下げる
まあ別に帰って来れないってわけじゃない
ただ帰って来れないかもしれないってだけだ
十二月
真冬ということもあって単車で走るには辛い季節になっていた
破る風は耳を裂いて手を凍らせて感覚なんてものは段々と痺れていく
それでも彼女のところへ行かなければ話にならないから、俺は一時間半の距離を単車で走った
時間は十八時を過ぎていて、街灯が一つもない村なだけあって恐ろしく真っ暗だ
家からは仄かな明かりが漏れているが、電気が通っていないと行っていたし、ロウソクとかか?
なんにしたって、人が住んでるとは思えない場所
一言で表せば不気味だ
彼女の家は村にさえ着けばどうとでも迎える
その村でさえ、高速の降り口から一直線なのだから迷うこともない
だから俺は黒服が一時間半かけた距離を同じ一時間半で到着することができた
月と星の光だけが眩い空の下
屋敷の入口である門の横には仰々しく松明が備えられえていて、現実ってのものを忘れさせる
村に来る途中のどこかで時空の穴が空いてると言われても信じてしまうくらいに
考えてみればこの屋敷、どうやって中に入ればいいんだろう
インターフォンはない
前は自動で開いていたはずだ
……これか?
門に鉄の輪っかが飾りのように付いていた
なにかの映画でそいつを打ち鳴らして呼ぶのを見たことがあった
その映画は日本の映画じゃなかったような気がするが
ともかく、俺は鉄の輪っかを門に叩きつけた
ごんっごんっと鈍い音が静かな空に響いていく
三分も待たずに門は自動で開いていく
玄関まではほぼ直線だが、その道中に人影があったので慎重に進んだ
暗闇に目が慣れてきて、月の光がすっと辺りを照らす
無表情で立つ黒服がいた
目が合うやいなやあっという間に近づいてきた黒服は問答無用で俺を殴り飛ばした
細身の体に当てられたとは思えない力に後退るも、倒れることはない
「なにをしにきた」
いつものように、高圧的な態度で黒服は言った
「彼女に言いたいことがあってな」
答えながらも近づいていく
黒服は俺の考えを読んでいるだろうか
歩いていき最後は一歩踏み込んで大振りの拳を黒服の顔面へ
殴った瞬間に浮かんだイメージに俺は唖然とした
以前、不良にはやばい奴を見抜く力があるとか言ったことがあるよな?
それは冗談抜きで存在する力なんだ
ただの勘ってやつなんだけどさ
殴った瞬間に俺は見た
だだっ広いこの庭で化物みたいに顔を腫らして倒れる俺自身を
なに、最初に得た勘は正しかったってだけだ
現に黒服は俺に殴られて、僅かに首が横を向いただけだった
それでも人間だからだろう、口の端から血が流れている
逸れていた視線がぎょっとこっちに向いて、睨んできた
「なにをしにきた」
「だから彼女に……っ」
強い恐怖と湧く不安を拭うために振りかぶった拳は、その時点で止められた
振り上げた時点で拳を掴まれた
「この程度で」
言葉と痛みが同時に飛び込んでくる
透明の衝撃に訳も分からず後ろへ倒れていた
ぐわんぐわんに視界が揺れながらも必死で体を天に向ける
田舎の夜空は圧倒的だった
頬が緩んで頭ん中が真っ白になって、もう一度殴られようって気になるくらい
考える余裕なんてなかったが、しかし考えてみればなんで俺は黒服に殴られてんだろう
殴られる理由ってあったっけ、と考えて、すぐに納得してしまう
俺は"お嬢様"を裏切り傷つけたんだよな
代償が痛みとなって飛んでくる
一つ二つと重なり顔を腹を四方八方殴られる
あの時悲しかったのが俺とはいえ、だからって相手が悲しまなかったはずはない
怒っていた、それも本当だろう
けれどそれ以上に彼女は悲しんでいた
涙を零さずに悲しんでいた
黒服は怒っている
彼女を苦しめた俺に怒っている
こいつは俺の敵か味方かよくわからないやつで
今でも容赦なく俺を痛めつけているが
だけど最初っから根っこは同じだったように思う
こいつはずっと"お嬢様"のためにいた
「ああ、なるほど、そういうことか」
俺の言葉で止まる黒服じゃない
俺の言葉に耳を傾けるほど優しくない
だから黒服が動きを止めたのは、俺が黒服に質問して、その上で俺を殴り飛ばした後だった
「お前、彼女のことが好きなんだろ?」
気のせいかもしれないが、黒服は力を一層込めて殴った気がする
なにせ、奥歯が飛んじまった
「図星か。そっか……そりゃ、ごめんな」
「なんのことだ」
「別におかしなことじゃないだろ。とぼけるようなことでもない。
お前と彼女がどういう関係か知らないけど、彼女を見る限り短い付き合いってわけじゃなさそうだ。
だから、お前が彼女に惚れててもおかしくない」
黒服は一転して微動だにしない
しかしそこは流石というべきか、うろたえるわけでもなく汗をだらだらと流すわけでもなく、無表情を貫き通す
……もしかしたら俺の勘違いかもしれないな。だけど――
「恋愛感情じゃないかもしれない。だけど――
お前は彼女が大切なんだろ? それだけは間違いないはずだ」
黒服は答えない。口を開かない
「沈黙は答えなりって、言うらしいぞ」
それに対して黒服は、否定の動作一つしなかった
「色々おかしいもんな、お前の行動って。
忠告してくれたり、突き放したり。
力になってくれたり、教えてくれたり。
でもそれがおかしいのって、俺を通してるからなんだよな。
全部を彼女基準にすれば、彼女のために動いてたって思える気がする。
お前はあの時、婆の口になってあれこれ言ってたけどさ……彼女が生贄になるなんて、本当は望んじゃいないだろ」
「望むわけがない。最初から望んでなどいない。
だがこれは……」
「しきたり、だもんな」
ぐうと黒服は唸って顔を落とす
握り込まれた拳から悲痛の音が聞こえた
黒服はずっと悔しかったのかもしれない
なにかをしてあげたくても、なにもしてあげられない
しきたりだから
村の掟は絶対だから
仮にしきたりを破れば黒服は死に、村八分という戒めによって親兄弟でさえも巻き込まれるだろう
ましてや、生贄ではなくなった彼女を村の者はどう扱うのだろう
狂ったしきたりが狂った罰を与えかねない
村に産まれた時点で彼女を救う資格はない
彼女を救う思考を作るには、あまりにもこの村の毒は強すぎたんだろう
黒服はいつの頃から彼女に惚れてて、
自分じゃどうしようもない不甲斐なさに苦しんで、
好きな女に助かってほしいがために、
恋敵を応援までして、
それってどれだけの想いなんだろうか
「貴様でもよかった。お嬢様を救ってくれるのなら」
「……ごめん」
ようやく村の外の人間と関わりが持てたってのに、それが俺だったってわけだ
彼女にとってではなく、黒服にとって最大の賭けだったんだろう
それだけ俺は重要だったんだろう
だけど結局、俺はなにもすることができなかった
「でも黒服。俺、決めたから」
黒服は応えない。元々口数の多い奴じゃない
「俺、俺さ……彼女に言いたいことがあるんだ」
「だから、覚悟決めてきたから」
無駄なことを口にしない黒服がそれでも口を開くということは、無駄じゃないということ
なによりも大事だということ
「お嬢様を救ってくれるのか?」
無表情で高圧的な黒服には珍しい、眉尻の下がった泣きそうな面だった
多分、彼女に惚れたその時からずっと溜め込んできた弱音だった
俺は笑って、そう返す
「わかんねえ」
いやいや、仕方ないだろ?
俺は彼女を救いに来たわけじゃないんだから
「……はっ」
暗かったけど、月も雲に隠れてたけど、それでも音は正直だった
どうせ言ったらなんのことだと濁されるんだろうけどさ
「なんだ、笑えんじゃん」
「……なんのことだ」
ほら、な?
おやすみ
あとげんふうけいじゃないぞ
だから誰ってわけでもない、ただの足が臭い不良だってのwww
楽しみにしてるぜ
あしたも楽しみにしてる!