ヴァギナビーンズ症候群

ノンジャンル体験小説スレより


2: 投稿者:いちむらさおり 投稿日::2012/07/29 23:54:17

彼女の興味はすでにショーケースの中に注がれている。
その隣にいる背の高い結婚適齢期の男性は、さり気なく上着の内ポケットに袖を差し込み、
ボディーガードさながらの物腰をくずそうとはしない。

「どれでも、千佳ちゃんが好きなのを買ってあげるよ。
 誕生日は明日だったよね?
 ええと、いくつになるんだったかな。二十……」

「二十三です。
 けどいいんですか?なんだかやっぱり悪いような気がするんですけど」

「それは僕に対しての遠慮なのかな?
 それとも……、お姉さんのことを思って言ってる?」

橘千佳(たちばなちか)は本心をさとられまいと細心の注意をはらいながら、偽りの憂い
顔で彼を見返した。
そして少し取り繕うように微笑んでごまかしてみせる。

「そんな顔しないでくれよ。明日はずっと一緒にいてあげるからさ」

「三上さんは誰にでも優しいんですね」

「よせよ。
 ほんとうに優しい人間なら、婚約者に隠れて、その妹とこんなふうに会ったりはしない
だろう?」

「やだ、誰かに聞こえちゃいますよ」

その時彼は少女漫画でよく見かけるきらきらした瞳を、実写として目の前で見てしまった
のだろう。
彼女の可愛い思惑にまんまとしてやられた三上明徳(みかみあきのり)は、きみさえ良け
れば、いつでも僕を頼るといい、罪なら僕がぜんぶ被ってあげるからと、堂々と自惚れて
いることにも気付かない。
そのすべては千佳の計算通りであり、同時に姉への裏切り行為でもある。
最初に姉から三上明徳のことを紹介された時など、歳の離れた兄ができた程度にしか
思っていなかった。
それから何度が顔を合わせるうちに、彼のほうが自分に特別な感情を抱いているのでは
ないかと、千佳は薄々感じるようになっていった。

しばらくして、三上明徳と婚約したのだと姉から聞かされた時は、千佳は二人のことを
心から祝福し、それまでの彼の言動が自分の勘違いだったのだと思い直す。
はじめから恋愛感情も湧いてはいなかったから、気持ちの切り換えをする必要もなかった
のだけれど、ある時を境に、どんな食事にも味がしなくなるのだった。

「欲しいものは決まったかい?」

明徳の紳士的な眼差しが、千佳のまるみのある横顔を捉えている。

「いちばん欲しいものは我慢しなきゃね。だって、三上さんはお姉ちゃんの──」

それ以上は言いたくないのか、千佳は言葉を詰まらせて何度も瞬きをしている。
そんな彼女がたまらなく愛おしい。
長身の彼は小柄な彼女に寄り添い、姉妹のあいだで揺れ動く気持ちを持て余していた。
それはやはり千佳が味覚に異変を感じはじめたのと同じ時期に、明徳の良心にも縫い針で
刺したような痛みがあらわれはじめていたのだった。

若年の二人はショーケースに映りこんだ互いの顔を見つめたまま、恋の火種となった
出来事を思い返してみる。

あの日、彼は私を抱きしめてくれた。もう引き返せそうにない、橘千佳はそう思った。

あの日、彼女は僕を抱き返してくれた。もう後戻りできそうにない、三上明徳はそう思った。



「ねえ、たまには三人で飲まない?
 女子会に使えそうなオシャレなお店、見つけちゃったんだよね」

橘千佳の姉、琴美(ことみ)からそんなふうに提案があった時から、何かが起こりそうな
予感がしていたことを二人は思い出す。
琴美の誘いを断る理由を、明徳と千佳は持ち合わせていなかった。
というより、前向きな気持ちのほうが強かったと記憶している。

「僕が参加したら、女子会とは言わないんじゃないか?」

「だったら女装でもしてみる?」

「よしてくれよ。僕にそんな趣味はない」

「素材はわるくないと思うんだけどなあ」

ははは、と笑う時にさえ息が合う二人を見ているうちに、千佳の心に純真ではないものが
染み出してきていた。
白でも黒でもなく、それはまだ灰色の感情だったのだろう。

「どうせならどちらかの部屋で家飲みしたらどうかな。
 お姉ちゃんの手料理のほうが外で食べるより美味しいし、
 ほら、三上さんだって未来の花嫁の腕前を見ておきたいですよね?」

まさか自分の口からそんな台詞が出てくるなんて、誰より千佳自身がいちばん驚いていた。
「どちらかの部屋」というのは、三上明徳が一人暮らしをしているアパートもしくは、
橘姉妹が二人で借りているアパートで、という意味である。
もちろん何らかのアクシデントが起きることを見越しての発言でもあるし、
「それがいいかもね」と言ったときの彼の笑顔に無条件の愛くるしさがあったのを、
千佳が見逃すはずがなかった。

自分はこの人のことを好きになってしまうのではないか。
そんなまさか……、絶対にありえない。
姉の彼氏に好意を持つ妹なんて、私は軽蔑する。
きれいごとを言えばそうやって諦めたふうに装えるけれど、恋に落ちた友人達が盲目に
なっていくところを何度も見てきた千佳にとって、自分も例外ではないと自覚していく
ことになる。

「明徳さんがそう言うなら、新妻の予行演習がてらに、今回は私が腕を振るいますか」

琴美は得意げに小鼻をふくらませて、家事とは縁のなさそうな細い指をスナップさせた。

二つ歳の離れた姉を誘導することに成功した千佳と同様、明徳にも下心らしき欲求が
芽生えはじめていたのだが、なにも知らないのは琴美だけ。
ランチタイムのファミリーレストランでの企画会議を終えて、「ここは私が」と琴美が
伝票を手に席を立つ。
少し遅れて千佳と明徳が腰を上げると、彼のシャツの裾を千佳がくいっと引っ張った。
どうかしたのかという表情で明徳が振り向けば、上目遣いの千佳が息苦しそうな挙動を
あらわしている。

「どうかした?」

今度は声に出して尋ねてみる明徳。

「シャツに糸くずがついてたから」

嘘をつくと瞬きが増える千佳。

「ありがとう、千佳ちゃん」

男性のさり気ない笑顔にこれほどまで胸を締めつけられるとは、恋愛経験の少ない千佳
には新鮮な刺激だったにちがいない。
ふわっと体温が上がったかと思えば、胸が詰まって頬の内側が酸っぱくなる。
果たしてこれはレモン何個分になるのだろうかと、火照った頭で分析をしてみるけれど、
これは無駄に終わった。

「きみが言いたかったことは、なんとなくわかったから」

店の駐車場に停めてあったRV車の運転席側から顔をのぞかせ、明徳は白い歯を見せて
そう言った。

「え、私なにか変なこと言った?」

琴美には何のことだかまったく覚えがない代わりに、彼女の後ろに佇む千佳には彼の本意
がどこにあるのか見当がついていた。
不意に、清楚なワンピースの裾が風にあおられ、琴美の素足が膝上まで露わにされたと
いうのに、明徳の視線はその背後の千佳を捉えたまま離れられないでいる。

さすがに血を分けた姉妹だけのことはある。
しかしこれはかなり厄介な問題に遭遇してしまったようだ。
僕はこの二人に対して平等に心を許し、最終的にはどちらか一人を選ばなければならない。
不器用な自分にそんなことが出来るとはとても思えない。
やっぱり僕は恋愛なんかには向かない人間なのだろうか。
まだ三角関係が成立していないうちからそんな皮算用をしている明徳のことを、姉のほうは
曇りのない笑顔で見送り、妹のほうは物恋しい眼で追っていた。



この数日後、それぞれの事情を抱えた三人は、橘琴美、千佳姉妹が暮らす賃貸アパートの
部屋で合流し、打ち合わせ通りに琴美の手料理で三上明徳をもてなした。


3: 投稿者:いちむらさおり 投稿日::2012/07/30 00:28:23

アパートのつくりは一階と二階に分かれたメゾネット形式になっていて、一階部分にある
和室を千佳が、それから二階部分の洋間一部屋を琴美が保有していた。
もちろんキッチンなどの水回りは一階部分にあるわけで、視たいテレビ番組があると言う
千佳のわがままと、導線を考慮した結果、千佳のプライベートルームに酒の席が設けられ
ることとなった。

「見た目は普通の唐揚げなのに、うまく化かしたもんだな」

「それってもしかして、褒めてるつもり?」

「もっとわざとらしいコメントのほうが良かったかな。
 鶏肉はジューシーで柔らかく、噛めば噛むほどにんにくと香草の風味が口いっぱいに
ひろがって、サクサクの衣とも相性がいいね」

「まったく素直じゃないんだから。美味しいの、美味しくないの、どっち?」

「最高」

そう言って親指を立てながら肉を頬張る明徳のそばで、本日の料理長でもある琴美は
さっそく照れてしまった。
彼女にしてみれば今すぐにでも彼と同棲をしたいところなのだが、嫁入り前の娘だから
などと古臭い考えに縛られている親の反対がある以上、それは挙式が無事に終わるまで
の夢物語になってしまったのである。
妹の千佳と一緒に住まわせているのも、都会での女性の一人暮らしがどれほど危険な
ことか、用心してもし過ぎることはないという親として当然の思いがあってのことだ。

「実家を離れれば、どこに出たって都会みたいなものよ」

自分の就職が決まってから、母親がよくそんなことを口にしていたなと、琴美はふと
思い出す。

「三上さんはいつも何を飲んでいるんですか?」

すでに二本目に突入したカクテルの缶を片手に、千佳は顔色も変えずに尋ねてみた。

「僕はだいたいビールだなあ。
 生ビール、と言いたいところだけど、発泡酒が正解かな。
 まあ、それなりに酔えれば何だっていいのさ」

「じゃあ、お酒は強いほうなんですね。私もお酒は好き」

最後の「好き」という部分だけ微妙にイントネーションを変えて、千佳は明徳の顔を
うかがう。
彼からの反応はとくにない。

「そういえば琴美はアルコールに弱いんだったな」

「嫌いってわけじゃないんだけど、少し飲んだだけでもすぐに酔っちゃうから」

「お姉ちゃんは飲むより食べるほうが好きなんだよね?
 あ、こっちのシーザーサラダも美味しいよ」

「でしょう?料理好きなのだけは、お母さんに似たんだよね」

「私のお酒好きは、お父さん譲りかもね」

「やっぱり女兄弟がいるっていうのはいいな。
 賑やかだし、ほら、男ばかりだと暑苦しいだけだしさ」

明徳が胡座(あぐら)をくずして後ろに仰け反る。
そして缶ビールを一口あおって残りをテーブルに置いた。

「私も一口、いいですか?」

その明徳の飲みかけのビールを味見してみたい千佳。
ラベルには『期間限定』の口説き文句が印刷されている。
なるほどこういうのに女の子は弱いんだなあと、明徳は千佳のことを推察していた。

彼から「どうぞ」と渡された缶ビールを手にしてみて、なぜだか急激に胸が高鳴っていく
のをおぼえる千佳。
完全に異性を意識した動揺が、彼女の体を緊張させようとしていた。
たかだか間接キスぐらいで、なにを今さら躊躇っているのか。
セックスでもなければキスでもない、姉の目の前で彼とおなじものを飲むだけの行為に、
明らかに不純な興奮を隠しきれないでいる。
そして明徳の様子を見てみれば、すでに彼は千佳が先ほどまで口をつけていたカクテルに
手をのばし、あたりまえのように飲むのだった。

「僕にはちょっと甘すぎるな」

そんな彼の無神経さも手伝って、千佳は思い切って缶ビールを飲み干した。

「苦味が抑えられてて、飲みやすいですね」

そう言ってはみたものの、正直なところほとんど味はしなかった。
飲み口に自分の口紅の跡を見つけて、指で軽くぬぐい取る。
これで一歩近づけた、そう思うとまたたまらなく明徳に触れたくなく千佳だった。
琴美も飲めないなりにアルコール度数の低い酎ハイをちびちび舐めては、女シェフを
気取ってキッチンと和室を往復している。

「それにしても綺麗に片付いているね」

ぐるりと首をまわして明徳が部屋中を見渡すと、額縁におさまった表彰状やら、金銀の
トロフィーなどが壁際に並べられているのに気付く。
さらに弦楽器のハードケースも見つけた。
ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバス、それら四弦楽のうちのどれかだと
いうことはシルエットから想像できる。
しかし、そのクインテットを背の高い順に並べろと言われたら、そのあたりの知識に
欠ける彼にとっては、とうてい無理な話なのである。

「小学校に上がるまえからヴァイオリンを習ってたんです。
 ぜんぜん上手くならないですけど」

謙遜しながら千佳は言った。

「上手くなくてもこんなに賞をとれるのかい?」

「もう過ぎたことです。
 今は何の取り柄もなくなっちゃって、男を見る目もないんですよ私」

「彼氏はいないの?」

「じつは二股かけられてて……。だからこっちから振ってやりました」

「今はフリーってわけか。こんなに可愛いのに、もったいない話だな」

「え……?」

明徳はとくべつ込み入った話をしているふうでもないのに、千佳のほうはまるで違う。

「可愛くないですよ、べつに……」

「僕なんかに言われても嬉しくない、か」

彼に返す言葉がない。
咄嗟に「ありがとうございます」と言ってはみたものの、余計に変な空気になってしまった。
ちょうどそこへ琴美がやって来て、ラストオーダーは締め切りますよと言い、ようやく腰を
落ち着けた。

「なんの話してたの?」

少し酔った顔で琴美は明徳に擦り寄る。

「千佳ちゃんも琴美に似て可愛いねって話してたところだよ」

「この子、最近彼氏と別れたばかりだから、誰かいい人いたら紹介してあげて?」

「お姉ちゃん。私のことはいいから、ちゃんと三上さんのことだけ見てなきゃだめだよ」

「千佳をおいて私だけ幸せになってもいいの?」

「私は、お姉ちゃんと三上さんを見ているだけで幸せなんだから」

「千佳……」

琴美は鼻が詰まりそうになるのをこらえた。

「お姉ちゃん、また泣いてる」

「泣いてないってば」

「あれ、千佳ちゃんも泣いてるの?」

そうして涙ぐむ二人を茶化す明徳。

「泣くなとは言わないけどさ、ちゃんと結婚式の日に泣けるようにしておいてくれよ」

明徳に言われ、琴美も千佳も泣きながら笑っていた。



どれくらい談笑していただろうか。
琴美はぐったりと酔いつぶれて、ソファの上で静かな寝息をたてている。
妹の千佳は手に泡を作って食器を洗っているところだ。
今夜はさすがに飲み過ぎたのだろう、明徳も途中でビールを辞退して、今は烏龍茶を
やりながらアルバムを眺めている。
千佳が初めて賞を貰ったときの、ヴァイオリン演奏会の様子をおさめたものだ。

「あんまりじろじろ見ないでください。恥ずかしいから」

洗い物を終えた千佳が髪からゴムをはずして、明徳と距離をとって座る。
ゴムの跡がついたところだけ少し巻いているが、その長い髪は彼女の魅力を膨らませる
にはちょうどいいボリュームを備えていた。

「小さい頃とほとんど変わらないね。
 いい表情してるし、よく撮れていると思うよ」

「お父さんに撮ってもらったんです。
 そのときの賞状なんかもほんとうは実家に置いてきたんですけど、親が勝手に送って
くるんです。どう思います?」

「どこも似たようなものさ。
 子どもはさっさと親離れできるのに、親はなかなか子離れできない。
 結婚してからもそれは変わらないと思うよ。
 親子はいつまでたっても親子だからね」

明徳の口から「結婚」という言葉を聞くたびに、千佳の心には微量な嫉妬が堆積していった。
なにかのきっかけがあったなら、それはたちまち千佳自身を飲み込んでしまうほどの
エネルギーを溜めていたのだろう。
姉と明徳を別れさせたいわけじゃない。
少しだけ彼の気を引いて、今の関係よりも前進させたいだけ。
片思いでもいいから彼のそばにいたい、それが千佳の本心だった。

「そういえば、視たいテレビがあるんじゃなかったっけ?」

そういえばそうだったと、千佳は慌ててリモコンのスイッチを押す。
まもなく大きな液晶は作動音もたてずに映像を映し出し、目当てのチャンネルにたどり着く。
眠っている姉を気遣い、そろそろと音量を下げる妹。
ドラマはすでに重要なシーンに差しかかっていて、別れる、別れないと言う男女の台詞が
聞こえてきた。
そして現実逃避にも似た表情を浮かべた女は、ついに男の唇を受け入れてしまう。
お互い家庭を持つ身でありながら、それぞれの素性を偽り、その歯肉にまで舌を入れてキス
をする。

まさかこんな場面を明徳と見ることになるとは、千佳にはまったく予定外だった。
気まずいと思えば思うほど、さらに気まずくなる二人。
なにか笑えるような話題でも持ちかけてみようと、千佳が明徳のほうを向いた時だった。
そこにはもう視界いっぱいにまで彼の顔が迫っていて、おそらく千佳は『うっかり』して
いたに違いない。
およそ十秒間、いや、それよりもっと長いあいだがあったかもしれない。
明徳の意外な行動に、千佳は呼吸をするのも忘れていた。
そしてゆっくりと自分から離れていく明徳に焦点が合うと、その感触が残ったままの唇に
千佳は指を添える。

「あ……」

ようやく声らしい声が出た。

「あの……、これって……、何なんですかね……」

感情が溢れ出る前の静けさというものが、彼女のその言葉から読み取れる。

「何って、キスだよ」

こんな時にも明徳は紳士を貫く姿勢をとる。
そして彼はもう一度、千佳の唇を奪った。
好きだと言う代わりに、上唇と下唇にだけ神経を費やし、性器同士を密着させるみたいに
彼女の口を塞いでいく。
千佳は抵抗しなかった。
どんなに目頭が熱くなっても、わけもわからず涙がこぼれても、この状況が理解できるまで
ずっとこのままでいようと思った。
琴美が眠っているすぐそばで、明徳と千佳は何度もつよく抱きしめ合った。


5: 投稿者:いちむらさおり 投稿日::2012/07/30 23:57:44

翌朝、橘琴美は妹の部屋を訪れていた。
夕べの記憶がすっかり抜け落ちているということは、先に酔いつぶれてしまった私を彼が
部屋まで運んでくれて、それからは千佳と二人きりで飲ませてしまい、つまらない思いを
させていたのだなあと、琴美は申し訳ない気持ちでいた。
だからこうして朝早くから謝りに来てみたのだが、千佳は寝相を乱しながらも熟睡中の様子。
おや、これはなんだろう、と千佳の枕元に見つけたものは、開いたままになっている日記帳
だった。
どうやら千佳は最後まで書き終えるまえに眠ってしまったようだ。
その綺麗な筆跡を目で追う琴美。

『私は、好きになってはいけない人を好きになってしまった。
 彼はわるくない、わるいのはきっと私。
 こんなことなら会わないほうが良かったのに、出会ってしまった事実はもう消せない。
 会いたい、会いたい、会いたい。
 どこに行けば二人きりで会えるの?
 誰からも干渉されたくない。誰も傷つけたくない。もちろん私自身も傷つきたくない。
 どうかこんな私に夢を見させて欲しい。
 そうじゃないと私は大切な人を──』

日記はそこで終わっていた。
文字のところどころが滲んでいるのは、きっと涙が落ちた跡なのだと琴美は思う。
それに丸めたティッシュペーパーが二つ三つ転がっている。たぶん涙を拭うのに使ったのだ。

「千佳……」

自分の妹が恋愛のことで悩んでいるというのに、ふさわしいアドバイスがなかなか浮かん
でこないのは、おそらく自分が永久就職という場所に甘えている証拠なのだろう。
それでもなんとか彼女にも幸せを手に入れて欲しいと願わずにはいられない琴美だった。



千佳が目を覚ましたとき、姉の姿はどこにもなかった。
結婚前の忙しい時期にいる身でありながら、市役所勤めに愚痴のひとつもこぼさない、
そんな姉が千佳の誇りだった。
千佳の会社はそこそこ名の知れた程度の文房具メーカーで、まだまだ高校生活の延長の
ような気分が抜けないまま、社内の同僚に連れ回されては、あらゆる分野の飲み会に顔を
出す日々。
だからといって派手な生活をするでもなく、身の丈に合った金銭感覚と、欲の浅い恋愛観
だけは常に保っていた。
そこに現れた三上明徳、彼の存在が千佳にとっての分岐点になったのは、言うまでもなく
千佳の一目惚れに他ならない。
そんな彼との夕べの出来事が、まだ現実のものだとは思えない。
あのキスはいったい何だったのか。

昨夜は明徳が帰った後もなかなか寝付けず、一線を越えられなかった火照る体をベッドに
投げ、途方もなくオナニーを求めたのだった。
けれども自分の体のどこをどう触れば快感が脳につたわるのか、そのあたりはまだまだ
初心者だし、俗に言う『イク』とはいったいどんな感覚なのか、はっきりした自覚もない。

もちろんセックスは経験済みだ。
痛いばかりの挿入に泣いたこともある。
相手が下手なのか、自分の体が未開発なのか、どちらにしてもセックスが気持ちいいと
思ったことは一度もない。
しかし夕べのあのキスは違った。
あのまま彼に押し倒され、ズボンの中のものを挿入されていたら、おそらく自分は女とし
ての悦びに震えてしまっただろう。
なぜならあのキスの最中、女性器の奥から漏れてくる下り物には不快感がなかったのだから。
事実、あとでショーツの濡れた部分の匂いを嗅いでみたけれど、それは異臭とは程遠いもの
だった。
セックスがしたくなると女の体は恍惚に染まり、膣が濡れる。
千佳の場合はそれだけではなく、生理不順になるほどの恋愛体質になってしまっていた。

「おっぱいが張っちゃうんだ」
「先月は生理が来なかったのに、今月は二回も来ちゃって」
みたいなことを友人にも度々こぼしたり。
極めつけは「何を食べても味がしないんだけど」と打ち明けたことだ。
恋の病、みんなが口をそろえてそう言う。

「最近元気ないね。悩んでるなら私が相談に乗ろうか?」

千佳のことをいちばん近くで見ていた姉の琴美は、妹の表情が日に日に沈んでいくのを
心に掛けていた。

「大丈夫、私ひとりでなんとかなるから」

「隠し事はなしだよ」

「うん、ありがとう。ごめんね、心配かけさせちゃって」

お姉ちゃんの婚約者のことが好きになった、だから私はこんなにも悩んでいる、なんてこと
言えるわけがなかった。
あのキスをした日以来、千佳は明徳とは会っていない。
彼からモーションをかけてくることもない。
あのときは二人とも酔っていたし、適当に盛り上がりたかっただけかもしれない。
彼は姉のことを愛しているのだから、私なんかに気持ちを傾けている余裕なんてないはずだ。
それに、私が彼を誘うような眼をしていたから、きっと彼も勘違いしたのだろう。
千佳は無理矢理にでもそう思うことにした。

次の月経は予定通りに来た。少しずつだが味覚も戻って、夢枕に明徳を思うこともしだい
に減っていく。
琴美と明徳の結婚披露宴で述べる予定のスピーチにも、前向きな言葉が目立つようにも
なってきている。
この分ならあと数日もすれば熱もすっかり冷めて、新しい恋に挑めるにちがいない。
千佳がそう切り替えようとしていた、まさにそのタイミングだった。


6: 投稿者:いちむらさおり 投稿日::2012/07/31 00:18:47

今日の空模様は雨のち晴れだと、予報ではそんなことを言っていた。
土曜日の朝、橘千佳は落ち着かない様子で衣装ケースやクローゼットの中を引っ掻きまわし、
これから着て行く服を決めかねている。
雨ならこっち、晴れならこっちと思っても、会う約束をしている相手が相手なだけに、
個人的に気合いが入ってしまうのも可愛げがあるのかなあとも思う。

今朝、姉の琴美は千佳よりも早くに起床し、「夕方には帰るから」とだけ言い残して
出掛けて行ったのだった。
毎月市役所が発行しているフリーペーパーに載せる記事を企画したり、それに伴う取材
なども琴美が引き受けている。
どちらかといえば、こども家庭課の窓口に立つよりも、そちらのほうがメインになっている
と言っていい。
なかなか首を縦に振ってくれない先方から、ようやく取材許可が下りたのだ。

「急な仕事が入ったから、ごめん、私の代わりに行ってきて。
 この埋め合わせはかならずするから」

琴美がそう言ってきたのが二日前。
それでも千佳は嫌な顔ひとつ見せずに、二つ返事でオーケーした。

「もうこんな時間。どうしよう、来ちゃうよ、やばいやばい」

軽いパニックと独り言、それから足の裏がくすぐったいような夢見心地も、千佳には久し
ぶりの感覚だった。
しばらくしてアパートの外で車のエンジン音が途切れ、それから間もなくチャイムが鳴ると、
玄関ドアの外に感じる気配に千佳の心臓はいよいよ止まりそうになる。
ドアを開け、その人物を部屋の中に招き入れた。

「おはよう、千佳ちゃん」

「おはようございます。
 あの、あと少しで準備できるんで、えっと、何か飲みますか?
 コーヒーがいいですよね。
 アイス、アイス、ミルクとシロップどこだったかな──」

緊張を隠すための笑顔をつくりながら、千佳は早口でしゃべりつづける。
三上明徳は至ってクールだ。

「どうぞおかまいなく。
 なんだか朝早くに目が覚めてさ、そしたら今度は眠れなくなっちゃって。
 修学旅行の前日じゃあるまいし、笑っちゃうだろう?」

「あ、それわかります。
 だって私も夕べはなかなか寝付けなくて、羊一万匹も数えちゃいましたから」

千佳の悪ふざけから出た冗談で、二人の笑顔が打ち解けていく。
彼女が羊なら僕は狼で、だとしてもいざという時までは牙を隠しておかなければならない
のだと、明徳は思った。
久しぶりに会う千佳はずいぶんメイクも上達していて、エチケットが行き届いたその姿は
清潔感に溢れ、性的対象として見ていいものかどうかもわからなくなる。
それほど明徳の心は波立っていた。

「千佳ちゃんだって忙しいのに、僕らのことに付き合わせてしまってごめん」

「私のほうこそ、お姉ちゃんの代わりになれるかどうか」

「そんなことより、僕と千佳ちゃんはどういうふうに見えるだろうね。
 新郎新婦でもなければ、恋人同士でもないし」

そんなに否定ばかりしなくてもいいのに、と千佳はちょっぴり胸が痛くなった。
そして明徳が咳払いをして

「だけど迷惑かけてるのは事実だし。
 あらためて……、今日一日、千佳ちゃんを僕に貸してください」

と言うと、サプライズゲストを見るような表情で「はい」と千佳は頷いた。

ほんとうは今日、明徳と琴美のふたりで結婚式場に行く予定だった。
披露宴で出される料理の試食会の為だ。
それなのに琴美は取材の仕事を優先し、その代わりとしてピンチヒッターにふさわしい
千佳を送り出したのだ。
こんな巡り合わせがそう何度も訪れるわけがない。
根拠のない自信が千佳の背中を押したり、そして時には引くことも必要なのだと囁く。

「そういえば……、あの時の僕はほんとうにどうかしていたよ。
 もう忘れてくれていいからさ」

明徳が仄めかしている事が何なのか、千佳にはすぐにわかった。
わかった上でこの難解な感情をどうぶつければいいのか、それを解く鍵を彼に求めた。

「三上さん……」

「何だい?」

「あのキスの意味を……、私に教えてもらえませんか?」



どうしてこう私の人生はツイてない事ばかりなのだろう。
ツイてる事といったら三上明徳と出会って婚約までたどり着けた事ぐらいだと、橘琴美は
胸のあたりを気にしながら口を尖らせている。
今日は取材が二件も入っていた。
肩掛けのバッグには取材用のツールもいくつか入っていたが、そんなに重いものでもない。
それを抱えた拍子に体のどこかで何かが切れる感覚があり、それがブラジャーのストラップ
だということに気づく。
新しい下着を買っている時間もなく困り果てたが、結局あきらめて人目のないところで
ブラジャーだけを抜き取った。

まさかノーブラで取材することになるなんて、なんだか落ち着かないな……。
けどまあ、おっぱいが仕事するわけでもないし、これは企業秘密にしておけば誰にも迷惑
かからないだろう──などと大胆なことを考えながらも、キャミソールの生地は琴美の胸
の先端をこすっている。
顔には出さないものの、生理的な反応は明らかに琴美の貞操を脅かそうとしていた。

オープン間もない洋菓子店の駐車場は、開店早々すでに満車の状態だった。
琴美は仕方なく車を路上駐車させると、捲れた分のスカートを伸ばしてアスファルトに
降りる。
シャンパンピンクに輝くコンパクトカーのボディーに、いまにも雨が降り出しそうな空が
映っている。
明徳と千佳は無事に結婚式場に着いただろうか。
私の勝手で振り回してしまって、私の悪口を言ったりしていないだろうか。
琴美の注意は自分の胸から逸れて、残してきたあの二人に向けられていた。

その洋菓子店には『シュペリエル』というフランス語の名前がつけられていて、店の外に
まで溢れるほどの客の行列がその盛況ぶりを象徴している。
看板メニューは、ヴァニラ・ビーンズをたっぷり効かせたカスタードプリンらしい。
様々な客層に当たり障りのない質問をしながらメモを取る琴美。
誰に嫌な顔をされることもなく、男性客の中には逆に琴美に質問を返してくる者もいる。
彼女の容姿と人柄がそうさせていることは、そこにいた誰もが認めていたようだ。

「ネットで調べて県外から来ました」と言う女子大生グループもいれば、
「自分へのご褒美に」と微笑む主婦、
「彼女に頼まれて代わりに並んでます」なんて苦笑いの若い男性まで、
個々の事情とスイーツとの関係について妄想を膨らませるのもまた面白い。

ある程度の情報が揃ったところで、今度は店のスタッフから話を聞くことにした。
こちらは事前に交渉を済ませてあった為、半ば私情を挟みながらも甘党談議は大いに盛り
上がった。
むしろ盛り上がりすぎたかもしれない。
二件目の取材の時間が迫っていたことに気付いたときには、遅刻を覚悟しなければならな
かったのだ。
カスタードプリンを手土産に店の外に出ると、低い空から雨が降っていた。
できるだけ濡れまいと琴美は車まで走ってみたが、服もスカートも予想通りの有り様に
なった。
ふうっと溜め息をついてバッグからハンカチを取り出し、そこらじゅうの濡れた部分を拭く。
若い女性の濡れた姿に欲情するのか、目の前を行き過ぎる男性の誰もが車内の琴美に向かっ
て色目を送っていく。

男の人はみんなそうだ。
どうせ家に帰ったら勝手に妄想をふくらませて、私のヴァギナやクリトリスを常識の外に
まで成熟させたり、簡単にイク女に仕立て上げようとするに決まってるのだから。
琴美は不愉快な気分をお腹に溜めたまま、雨足の強くなった中を車で走り出した。


7: 投稿者:いちむらさおり 投稿日::2012/08/01 00:01:37

傘を持って来なかったことに気付いたのは、河原崎家に到着してすぐのことだ。
約束の時間はもうとっくに過ぎていて、昼食もとれないまま急いで来てみれば、夕立の
ごとく降りしきる雨は視覚を鈍らせるほど勢いよく落ちてくる。
こんなときに限って傘を置いてくるなんて、シャワーの中に飛び込めと言われているよう
なもんだと、琴美は車から降りるタイミングをなかなか決められずにいた。
雨のせいで道が混んでいたこともあり、河原崎郡司(かわらざきぐんじ)から提示された
時間よりも一時間ほど遅れてしまっている。
彼の機嫌を損ねてしまえば、せっかくの取材が白紙に戻ってもおかしくない。
彼に会わせる顔もないし、このまま帰ってしまおうかと琴美は思った。
その時、河原崎郡司の家の中から誰かが出て来る気配があったが、雨が視界を遮ってよく
見えない。
玄関のあたりで黒い傘が開いた。
人影はそのまま琴美の車までやって来て、運転席側で立ち止まる。
琴美はその人物と目が合い、即座に仕事の顔をつくって、どうもと会釈した。



家の中からでも外の様子は容易に想像できた。
雨戸に叩きつけているのが液体とは思えないほど、その音は破壊力を含んで聞こえた。
居間に通された琴美は畳の上に正座して、台所でお茶を煎れる初老の男の背中をうかがう。
やがて盆に急須と湯呑み茶碗を乗せた郡司がのらりくらりと帰ってきて、熱いから気を
つけなさいと言いながら、卓袱台にそれらを並べた。

「あの、こちらから取材をお願い差し上げたのに、こんなことになってしまいまして、
申し訳ありませんでした」

琴美は三つ指をついて頭を下げた。
これについては郡司にも思うところがあったのだが、すでに反省の色を示している若い娘
を言葉でなぶるのは気がすすまなかった。

「橘さんとか言いましたな」

「はい……」

「わたしが甘い物を好んでいるということを見抜いていたのかね?」

琴美の膝元に置いてある菓子折りを見つけて郡司が言う。

「お口に合うかどうかわからないですけど」と箱を手にかしこまる琴美。
それはつい先程『シュペリエル』で買っておいたカスタードプリンだった。

「これは洋菓子のようだが」

「はい。カスタードプリンです」

「ほんとうは、甘い物は医者から止められているのだがね」

「あっ、す、すみません。すぐに別の物を買ってきます」

「いいや結構。医者という連中は、どうやら患者の楽しみを奪うのが仕事らしい。
 橘さんも長生きしたければ、医者の言うことなんかは聞かんほうがいい」

郡司は肩をゆすって笑った。
彼につられて琴美の表情にも余裕ができてくる。

「これはなかなか、ハイカラな味がしますなあ」

美味しそうにプリンを食べる郡司を見るうちに警戒心が解けて、琴美は嬉しくなった。
ほっと安心してみると、今度は琴美のお腹がぎゅるると鳴り出す。

「すみません。お昼、まだ食べてないんです」

これでは恥の重ね塗りだ。
琴美は赤面しながら苦笑いするしかなかった。

「きみは、ダイエットとは縁がなさそうな人に見えるな」

「いいえそんな……。でもダイエットは一度もしたことありません」

彼の言わんとしていることが琴美にはわからなかった。
河原崎郡司という人物は、年齢の割にはいかつい体格の大男だ。
その彼が立ち上がるとたちまち天井は低くなり、二歩、三歩と進めば山が唸り声をあげ
ながら動いているようだった。
彼はどこかに電話をかけると、またすぐに戻って来た。
何を企んでいるのかまったく読めない代わりに、彼の中には悪戯な少年が棲んでいるの
ではないかと琴美は思えてならない。

「さて、ただの絵描き爺にどんな話をさせるつもりかね?」

取材を始めようかという意味で郡司はそう言った。
彼の本職が画家であることを思い出し、琴美はペンと大学ノートを構える姿勢をとった。



日本家屋のあるべき姿だといえば大袈裟だが、古めかしい家具や柱のひとつひとつにも年輪
を感じさせる味が滲んでいた。
大きな掛け時計が二時二十分を指していても、それが正確な時刻かどうかも怪しく思えてくる。
琴美は焼き飯と中華そばを腹におさめ、郡司もまたおなじものを台所で黙々と食べていた。
さっきの電話は出前をとる為のものだった。

「ごちそうさまでした。このお返しはかならずさせていただきます」

郡司はそれには答えず、「わたしのアトリエに案内しよう」と琴美を連れて裏口を出る。
ここでも傘が必要になった。

郡司のアトリエは母家とは少し離れた場所にあり、その建物だけは近代建築の外観を見せ
ていてまだ新しい。
あの著名な河原崎郡司の絵画を間近で観ることができるなんて、それだけで琴美の胸は
ひどく震えた。
それにしても雨は相変わらず水鉄砲のように傘をなぐり、仕事場に着く頃には郡司も琴美
も着衣を湿らせる始末だ。

「まったく近頃の雨ときたら、年寄りや女子供にまで容赦がない。
 儲かるのは雨具屋ばかりで、絵描きなんぞは日照りつづきだというのに」

郡司の言うことが可笑しく聞こえて、琴美の口からくつくつと笑い声が漏れた。
初老の大男は背筋を伸ばし、
「笑っておれば福が付く。橘さんの器量に焦燥は似合わんということだ」
と琴美に気遣いを見せる。
ここにきて初めて心から笑えたような気がして、彼に対する印象は琴美の中で良い方向に
傾き出していた。

部屋に上がればそこは琴美の予想通りにというのか、油彩、水彩、アクリルの絵の具類や
イーゼルにキャンバスなどの画材が散らかり、ほとんど足の踏み場もない。
そう見えてじつはそれぞれの画材には定位置があるのだと、郡司は白髪の目立つ頭を
ふさふさと撫でて言う。
温度や湿度に加えて換気状態にも管理が行き届いた、作品たちにとっては至れり尽くせり
の環境といえる。

「やはりここがいちばん落ち着く。
 最期のときもここで迎えられたら本望だ」

「そうかもしれませんね。
 だけど河原崎さんはずっと長生きする気がします。
 だって、絵画に寿命はありませんから」

琴美から意外な返答をもらい、郡司は感心した。

「橘さん、歳はいくつかね?」

「二十四です」

「そのきみに訊こう。
 この絵を貞淑と見るか、不貞と見るか、どちらだと思う?」

彼が指差した方向にキャンバスを見つけ、琴美は静かに歩み寄って対峙した。
それはまだ下絵が半ば剥き出しになったままの、描きかけの水彩画だった。
中央にウエディングドレス姿の女性が描かれている。
燭台に乗った蝋燭は情熱の炎をたたえ、女性の左手薬指を飾る指輪に溶けた蝋が滴り落ち
ている。
そしてテーブルの上には林檎の果実を配置し、一匹の蛇がそれに絡まりながら蝋燭を睨み
つけているようにも見える。

「これは……」

琴美は少し息を飲み込む仕草をして、「どちらでもないと思います」と言い切った。
郡司は無言のまま、その理由を聞こうじゃないか、という眼を彼女に向ける。

「まず、蝋燭は男性のシンボルをあらわしていて、純潔を意味する結婚指輪を濡らして
いるのは、おそらく精液。
 貞操を汚されたいという女性の願望でしょう。
 反対に、林檎は女性器の象徴であって、蛇という強靭な鎖に貞操をまもられているの
ではないでしょうか。
 蛇と林檎の関係は、ここでいう新郎新婦のことでしょう」

郡司は琴美のほうを見ずに、二度頷いた。
しかし彼の表情は否定的だった。

「残念だ」

「え?」

「そこまでの優れた感覚を持ちながら、きみは余計なものをここに持ち込んでしまっている」

琴美から笑顔が消えた。
二人は向き合い、ふたたび郡司が口をひらく。

「橘さん、きみ自身はどちらなんだね?貞淑か、それとも不貞なのか」

乾ききらない雨のしずくが、琴美の髪をつたって落ちる。
そして思い出したように顎を引いて胸元を確かめた。

「きみはそんなふうに誰にでも色気を振りまく人間なのかね?」

耳の奥が詰まる感覚がして、琴美は眉間をしかめる。
彼の指摘するものがそこにあったのだ。
どうにもならない胸の膨らみがキャミソールを押し上げ、雨で濡れた白いシャツは琴美の
体型をあられもなく透かせている。
下着を着けていないのだから、うまい言い訳も見つからない。
琴美が咄嗟に隠したときにはもう遅かった。

「これはその、そういう意味じゃなくて……」

「きみはさっき、お返しはかならずすると、確かそう言っていたね?」

その言葉は痛みを伴った。
どこがどう痛いのかはわからないが、自分の身に危険が迫っているのだと琴美は悟った。
河原崎郡司は身寄りのない男だ。
いまここで琴美が声を張り上げたとしても、誰に届くことがあろう。
出入り口に鍵がかけられていることは見なくてもわかる。
最初から彼はそのつもりで私をここに招いたのだ。

「取材を引き受けた以上、その姿勢は貫こう。しかしだ。
 きみにもそれなりの覚悟が必要ではないのかね?」

郡司は琴美との距離を詰める。
彼の言う覚悟とは、私のなにかを犠牲にしろと促しているにちがいない。
琴美は自分の呼吸がはやくなっているのに気づき、ただ泣かないようにシャツとスカート
にしがみついた。
そして郡司に言う。

「私の覚悟を、ごらんになりたいのですか?」


8: 投稿者:いちむらさおり 投稿日::2012/08/02 00:05:24

少し喉が渇いたと言われ、三上明徳は橘千佳を連れてコーヒーショップに寄った。
二人は市内の総合結婚式場でチャペルとカクテルドレスなどを見学したあと、イベント会場
に移動し、実際に披露宴で出されるフルコースを試食したのだった。
どれもこれも美味かったと明徳が言うと、当日は新郎新婦にはなかなか食べている時間が
ないんですよと、千佳が微笑む。

「独身なのによく知っているね」

「友達の結婚式に招待されたときにね、新婦がよく愚痴ってくるんです。
 どうせ食べられないのなら、食品サンプルにしておいて欲しいって」

そうしてまた笑顔を見せる。
千佳は今朝からよく笑っていた。
そのたびに明徳は性的なインスピレーションに刺激され、彼女との距離を縮めるきっかけ
を探ろうとしている。
橘姉妹のアパートを出る前に千佳から問われたことに関しては、できるだけ意識しない
ように努力していたつもりだった。
酒に酔っていてあまり覚えていないと、言いたくない台詞をつい口にしてしまったのだ。
それに対して千佳のほうもおなじことを言ってきた。
きっと真意は別のところにあるのだろうと見抜いていたが、お互いが気遣い合って、
それ以上の追求は無意味だと思ったようだ。

「三上さんは何かサプライズとか用意してあるんですか?」

「それを言ってしまったらサプライズじゃなくなるだろう?」

「否定しないってことは、やっぱりあるんですね」

鎌を掛けられた男の顔が、やがて笑顔に変わる。

「千佳ちゃんに嘘は通用しないようだね」

濃いめのチークがさらに紅くなり、千佳は前歯をのぞかせてまた笑う。
もはや好きになってはいけないと言うほうが無理だ。
こいつはかなりの強敵になりそうだと、明徳は千佳と出会ってしまったことをいまさら
後悔した。

「まずいよなあ、やっぱり」

「ここのコーヒー、そんなに美味しくないんですか?」

「いや、なんでもない。こっちの話」

明徳としては、婚約者の妹を好きになっては「まずい」と言いたかったのだ。
姉の琴美はどちらかといえば美人に分類される顔立ちで、一本通ったぶれない意思の
持ち主である。
妹の千佳はそれほど目立った美人ではないけれど、素朴な可愛らしさと愛嬌があり、
何事にも一途なところが魅力でもある。
そんな二人姉妹のことを考えていると、ただただ溜め息が出てしまう。

「ごめんなさい。
 私といても退屈ですよね……」

「いや、そういう意味の溜め息じゃなくて。
 マリッジブルーかなにかだと思うよ。だから気にしないで」

「男の人のマリッジブルーなんて聞いたことないです。
 やっぱり来なきゃよかった……」

拗ねた顔がまた余計に女の子らしくて、明徳は千佳の唇にキスをしたくなった。
彼女が飲んでいるカプチーノの白い泡が、ふくらんだその唇に付着している。

「出よう」

「え?」

明徳は突然立ち上がると千佳の腕をとり、少し紅い顔をしたまま店を出た。
そして車の運転席に乗り込むなり、こう言った。

「さっきはごめん、千佳ちゃんのまえで溜め息なんかついて。
 けどこれだけは言える。
 僕は今日きみと一緒に過ごせて、ほんとうに楽しかったんだ。
 だからもう機嫌をなおしてくれないか?」

「そんなこと言われても……」

「じゃあ、許してくれなくてもいいから、もう少しだけ僕に付き合ってくれ」

それはつまり、と一度言葉を切って、明徳は千佳の目を見つめながら、
「あのキスの意味を教えてあげるよ」そう言った。
千佳の心臓は大きくなったり小さくなったりして、そのサイクルはしだいに速くなる。
車が走り出してからもそれはおさまらず、これから向かう場所に心当たりがあるだけに、
こういう場合には女性としてどんな行動に出るのがベストなのか、それをずっと探っていた。
しかしそれもすぐに飽きてしまった。
男と女の駆け引きを持ち出すには、千佳はまだ経験が浅すぎたのだ。

やがて車は『それらしい』建物の敷地内に進入し、駐車スペースでエンジンが切られ、
ワイパーも止まった。

「私をこんな場所に連れてきて、どうするつもりなんですか?」

千佳は助手席に座ったまま顔も上げられずに、早口で尋ねる。

「どうするもなにも、ここに来れば僕の気持ちがわかってもらえると思って。
 だからつまり……」

「三上さんは、お姉ちゃんの婚約者じゃないんですか?
 私とラブホテルなんかにいていいんですか?
 良くないですよね?」

「それはわかっているつもりだ。
 わかっているけど、どうしようもない事だってあるんだ」

「どうしようもないから、私とセックスするんですか?」

ようやく顔を上げた千佳の眼は少し充血していた。
正面から見る彼女の顔を、明徳はいちばん気に入っている。
一瞬にして迷いが消え、気持ちが溢れ出してきた。

「僕は……」

口の中が渇いて声が詰まる。
唾を飲み込んだ。
喉のつかえが取れて、今度はうまく言えそうな気がした。

「きみのことが好きになったのかもしれない……。
 迷惑なら謝るよ……。
 でもこれが、あのときのキスの意味なんだ」

明徳の誠意に満ちた眼差しは、千佳のことを恋愛対象としてしか見られなくなっていた。
お互いの目が左右に泳いでいるのがよくわかる。
しばらくそうしていると千佳はバッグのほうに視線を逸らせ、中から手帳を取り出した。
女の子のバッグの中にはいったいどんなものが入っているのだろうと、明徳は千佳の行動
よりもそちらを気にする。
そして千佳の瞳が手帳のとあるページで一時停止すると、彼女はそのまま考え込む素振り
をした。
二人して一言も発しないまま、何秒もの貴重な時間が消滅した。

「やっぱり僕はつくづく恋愛には向かない体質なんだな。
 ごめん……、アパートまで送るよ」

言って明徳がふたたびエンジンをかけようとしたその時、なぜか千佳は自分でシートベルト
をはずして車外に降りた。
それを追うようにして明徳もラブホテルのエントランスに向かう。
彼女はこんなにいい子なのに、僕はなんて最低なことをやろうとしていたのだろう。
千佳の背中に明徳は反省の念を送る。
千佳が立ち止まり、明徳も足を止める。

「この部屋がいいな……」

色とりどりのパネルのひとつを指差し、千佳は明徳の返事を待ちわびる。
女の子に恥をかかさないでください、そう言いたかった。
明徳はすべての感情をいちどリセットさせて、いちばん最初に湧き上がってきた気持ちに
従うことにした。

「千佳ちゃん、きみをがっかりさせてしまうかもしれないけど」と前置きしておいて、
「やっぱり行こう」と彼女の手を引き寄せ、明徳はきっぱりと意思表示をしてみせた。


引用元サイト:
官能小説の館|ナンネット
引用元掲示板:
ノンジャンル体験小説 > ヴァギナビーンズ症候群


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