【官能小説】 果葬(かそう)

ノンジャンル 官能小説スレより
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投稿者:いちむらさそり 投稿日:2013/04/16 22:22:43





 あのとき、白雪姫が口にした真っ赤な毒林檎は、彼女の味覚にどのような疑念を抱かせたのだろうか。
 ただ甘いだけの口あたりではなかったはずだ。
 小気味良い歯触りの果肉に仕組まれた、おそろしく陰湿な気配を感じながらも、咀嚼(そしゃく)を止めることができなかったのかもしれない。
 果たして彼女は自ら毒を摂取し、しんと降り積もる雪のような深い眠りに落ちたあと、思わぬ接吻で目覚めることになるのだ。
 けれども私にはわかる。彼女は最初から彼の唇を、心を奪うつもりで、魔女の呪(まじな)いを利用したにすぎないのだと。
 色恋に狂った女々しい体を慰めることができるのは、セックスシンボル以外には考えが及ばなかったのだろう。
 ほんとうは男女の性交こそが毒だということを疑いもしない、なんて可哀想な姫なのかしら──。

 そんなふうに取り留めのない妄想に耽ったまま、花井香純(はないかすみ)は冷蔵庫の扉を開け放ち、その火照った頬に冷気の流れを感じていた。
 もうさっきからずっとおなじ姿勢を崩すことなく、左手に乗せた林檎の様子を眺めては、ごくりと生唾を飲み込む仕草に終始しているのだ。
 真っ赤に熟した果実は手に余るほど重く、その内部に甘い蜜を分泌させているのが容易に想像できた。
 そしてまた喉が鳴る。
 二十八歳になったばかりの女は、後ろ髪の結った部分をふうわりと片手でなおし、一呼吸おいて、艶めかしく濡れる唇を林檎の表面に重ねた。
 あ、あん──と喘ぎたい気持ちがほんとうになると、息のかかるその接点からは、たちまち卑猥な吐息が漏れはじめる。
 そしてただ一口、さくりと歯を立て、あとはもう勢いにまかせて下顎をしゃくった。
 もうじき、官能が舌にひろがっていくだろう。
 うっとりと瞼を閉じ、二度、三度と噛みほぐしていくと、そこから溢れ出す果汁が口のはじから垂れ、やがて下唇から顎の輪郭をつたって滴り落ちた。
 香純は陶酔していた。体のあちこちが種火のようにくすぶり、あわよくば、いますぐにでも慰めに先走りたいと思っている。
 女がこれでは始末が悪い。
 けれどもどうにもできない恨めしさが、あと一寸のところで理性を働かせているのだ。
 毒でもいいから、とにかく楽になりたい、快楽が欲しい──そんな欲求に促され、二口目をかぶりつこうというとき、冷蔵庫の半ドアを知らせるアラームが鳴った。
 はっと我に返る香純。
 気づけば林檎の蜜が、首から胸元までをぬらぬらと汚していた。
 それが誰の仕業なのかがわかると、喪服のおはしょりを丁寧になおし、ハンカチで胸元を拭った。

いけない。買い忘れたものがあったんだ──。

 このところの眠れない夜のせいで痩せてしまった頬に、ふたたび体温が灯った。
 ひっそりと広い家の中は、女独りきりではなにかと心細く、懐かしい生活音さえ聞こえてこない。
 キッチンの隣は十畳ほどの和室になっており、いまは急ごしらえの仏間にさせているのだ。
 あちらとこちらを仕切る引き戸の隙間へ目をやれば、亡き人の遺影が無言のまま鎮座して見えていた。

「こんなことになってしまって、ごめんなさい。孝生(たかお)さん」

 ほとんど唇を動かさないで、香純は遺影に向かって独り言を呟いた。
 そうしてかるく身支度を済ませると、線香の残り香をたなびかせながら家を出た。




投稿者:いちむらさそり 投稿日:2013/04/16 22:32:51





「おまえさん、もう煙草はやらないのかい?」

 黒塗りのセダンの助手席に深々と座った大上次郎(おおがみじろう)は、運転手の男に向かって雑談を持ちかけた。

「ええ、まあ。あれは体に毒ですからね」

 車のエンジンを始動させながら、若手の藤川透(ふじかわとおる)がそれに応じる。
 かかりはあまり良くないが、これでなかなか妙な愛着が湧いて、おなじ車をずっと手放せないでいるのだ。

「聞いたぞ、藤川。もうすぐ父親になるんだってな」

「さすが大上さん、耳が早いですね。だから余計に吸えないんですよ。妊婦の前で二本指を立てようもんなら、離婚だ裁判だなんて騒がれかねませんから」
 言いながら、やれやれという表情の中にも、どこか幸せを滲ませる余裕もあるのだった。
 大上は皮肉な笑みを浮かべ、
「俺はもう三度も禁煙に失敗している。値上げしようが、体に毒だろうが、やめれんものはやめれん」
と自分の煙草に火をつける。

 やがて車は静かに走り出し、カーステレオから流れるラジオ番組の音声が、二人のくだらない会話を遮った。
 パーソナリティーらしき女性は声のトーンを微妙に下げ、めりはりをつけた語り口で、ある事件についての記事を読み上げている。

「これって例の、神楽町で起きた通り魔事件のことですよね?」

 先に食いついたのは藤川だ。
 それに対して年配の大上のほうは、
「まったく、物騒な世の中になったもんだ」
と鼻と口から煙を吹き出す。

「犯人の目撃情報も乏しいっていうし、まあ、夜の十一時なら無理もありませんね。被害者の名前、なんて言いましたっけ?」

「花井孝生、三十五歳の警備員だ。その日も通常どおりに出勤して、事件現場となった道路の交通整理にあたっていたそうだ。そうしたらいきなり背後から、ずぶり、というわけさ」

「犯人はそのまま逃走して、被害者はそこで息絶えたというわけか。まだまだ働き盛りで将来があったはずなのに、遺族の人たちの気持ちを思うと、なんだかやりきれませんね」

「所帯持ちで、夫婦のあいだに子どもはいなかったらしいが、そこの奥さんがえらいべっぴんだって噂が流れている」

 そこを右だと藤川に指示を出しながら、大上は喫煙の合間に上唇を舐めた。

「その話なら俺も知ってます。こんなときに不謹慎かもしれませんけど、若くして未亡人になると、ありもしない男関係の噂がいろいろと立つもんなんですよね」

「まさか、おまえさんもそのくちかい?」

「なにがです?」

「彼女の傷心につけ込んで、どうにかなろうって考えてるんじゃないかと思ってな」

 そう言って大上は、備え付けの灰皿で煙草の火を揉み消した。

「やめてくださいよ、そういうの。うちのかみさん、あれで結構、地獄耳なんですから」

 藤川は大げさに口を尖らせて否定した。
 その様子があまりに可笑しくて、大上は低い声で含み笑いをした。つられて藤川も笑う。

 そんなやりとりの中、車は大きな交差点で赤信号に捕まった。二人同時に車外の景色を物色する。
 飲食店の入った小さなビルから、それなりに名の知れた高層オフィスビルまでが、まるでブロックのパズルゲームでもしているみたいにびっしりと建ち並んでいる。
 企業がどれだけ成長しようが、社屋の底辺が限られているため、こんなふうに上へ上へとフロアを積み上げていくしかないのだ。
 日本は狭い国なんだな──と藤川はあらためて実感した。

「おい、藤川」
と半身を起こした大上が、遠慮がちに窓の外を指差す。
 何事かと思った年下の相方がそちらを窺うと、スーパーの買い物袋を提げた二十代くらいの喪服姿の女性が、ちょうど横断歩道を渡るところだった。
 袋の中身が紅く透けて見えているのは、おそらく林檎で間違いないだろう。

「あれが噂の未亡人ですかね?」

 そう藤川が頬肉を弛めると、
「どうだろうな。もしそうだとしても、あんな格好で外を出歩いた日にゃ、目立ってしょうがないだろうに」
と大上の口調はぶっきらぼうだ。

「上着の一枚でも羽織れば間に合うじゃないか。それなのに」

「仕方ありませんよ。心痛で、気がまわらなかったんでしょう」

 藤川は自分で言いながら、前を横切っていくその異様なまでに美しい女性のことを、いやしい目で見つめている自分に気づいた。
 それでも視線を逸らせることができないでいる。
 黒い蝶が花から花へと渡っているのだ──藤川の脳裏にはそんなイメージが湧き出していた。

 ふと隣を見ると、大上の皺の深い顔面がこちらを向いていた。
 取り繕う間もなく、
「よそ見してると、ろくなことにならんぞ」
という台詞を聞かされる。

「な、なんのことです?」

 藤川がとぼけていると、
「信号、青だ」
と言いながら、大上は二本目の煙草を口にくわえた。




投稿者:いちむらさそり 投稿日:2013/04/18 00:16:07

3―1



「リーチ!」

 もう何度も聞いたその声に、場の空気はすっかり諦めムードに変わっていた。

「またかよ。お姉さんには適わないなあ」

「ビギナーズラックもここまでくると、実力に思えてくるぜ」

「そのリーチ、ちょっとだけ待ってもらえないかな?」

 そうやって面子の男らの弱音が一巡すると、
「麻雀て、思ってたよりも簡単なんですね」
と青峰由香里(あおみねゆかり)はピンク色の舌先をぺろっと覗かせた。
 初めのうちこそ七対子(チートイツ)あたりの比較的あがりやすい役ばかりを手持ちにしていたが、そのうちに跳満や倍満を連発するようになり、ついには役満まで披露してみせたのだ。
 由香里にしてみれば、これで面白くないわけがない。

 この雀荘に足を運んだのは、今日で二度目だった。
 たまたま知り合った主婦と世間話をしているうちに、お互いの育児疲れのことや、旦那に対する愚痴などで馬が合い、腹の中に溜め込んだ日頃のストレスを大いに発散したのだ。

「もっと楽しいストレス解消法があるんだけど」

 そう言ったのは相手の主婦のほうだった。どういうものかと訊いてみれば、うまくいけば小遣い稼ぎもできるということで、由香里はなにも考えずに二つ返事で話に乗ったのだった。
 まだまだ手のかかる子どもは一時保育へあずけ、家の金を勝手に持ち出し、その主婦と二人して麻雀に浸った。
 どうせ勝てないだろうと予想していた通り、その日の成績は散々なものだった。
 それでも局の中盤ぐらいの一時、由香里が有利になる場面もあったりして、自分の知らない世界を垣間見れたことに興奮とスリルを覚えていた。

 そして今日、由香里は一人でこの雀荘を訪れ、前回のリベンジを果たすべく手に汗握っているのだった。
 しかし先ほどの由香里のリーチ告知の直後から、面子の誰もが口々にする台詞の語尾に、どこかきな臭いものが混じっているような気がしていた。
 そんな不穏な気配を秘めたまま、東、南、西の男らがそれぞれの牌を切り終え、いよいよ由香里がツモる番になった。
 彼女が流れを呼び寄せているのは間違いなかった。
 牌の山から一枚取り、手首を返して、由香里はあからさまにがっかりしてみせた。
 そして面子の誰もが注目する中、
「ツモ!」
と宣言して目を輝かせた。たちまちギャラリーが沸く。

「また勝っちゃった。あたし、今日はすごく調子がいいみたい」

 由香里は胸の前で小さく手を打った。
 たった一人の女相手に、大の男が三人ともに負け越しを喰らっている。
 今日は久しぶりに家族で外食に出かけられそうだと、由香里はそんな淡い幸せに酔いしれていた。

「そのツモ、ちょっと待った」

 彼女の対面に座っていた髭面の男が、唐突にそんな言葉を発した。
 その両脇でさっきまで白旗を振っていた二人にしても、この場面では口のはじに気味の悪い笑みを浮かべている。
 由香里は事態を呑み込めずにいた。

「あたし、なにもしてませんけど」

 気圧されないように精一杯声を張り上げたつもりが、つい力みすぎて変に裏返ってしまった。

「それじゃあ、これを見てもまだ白けつづけるつもりか?」

 この言葉を合図に、由香里以外の三人が同時に牌を倒して、手の内を明かした。
 一見して、なんの意図もないただの出来損ないの手に見えたが、しかしそこには、あってはならないものが確かに存在していた。

「お姉さんがいまツモった一筒(イーピン)、俺らが四枚とも抱えてんだよ。いかさましたね?」

「そんなこと……」
と言ったきり、由香里はわなわなと口ごもってしまった。鴨にも葱にもなるつもりはなかったが、言い返すべき文句が何一つ思い浮かばなかったからだ。

「由香里ちゃん、だったよね?ここらではっきりさせておこうよ」
と右側の茶髪の男が言うと、
「その体のどっかに、ほかの牌も隠してんじゃねえの?例えばそうだなあ、下着の中とか?」
と示し合わせたように、左側の猪みたいにずんぐりした男もにやつく。
 由香里は反射的に立ち上がり、口をかたく結んで目を潤ませた。そして恐る恐るまわりを見渡してみて、そこに居合わせた全員の視線が、漏れなく自分に注がれていることに気づく。
 罠だ──と直感したときにはもう手遅れだった。
 都合のいい女を餌にしようという陰気な空気に包まれる中、博打の勝者になるはずだった由香里は、強面(こわもて)の三人に連れられて雀卓をあとにした。
 彼女の腰からぶら下がったラビットファーのストラップが、寂しげに尻尾を振っていた。




投稿者:いちむらさそり 投稿日:2013/04/18 00:27:36

3―2



「ほんとうに、あたしはなにも知らないんです。嘘じゃありません」

 事務所と思われる部屋に入るなり、由香里は俯き加減にそう言い放った。
 そして部屋中に配置されている豪華な調度品を一瞥し、学生時代に一度だけ入ったことのある校長室みたいだなと、どうでもいい感想を抱いた。
 しかし彼女を取り囲んでいるのは良識のある聖職者ではなく、狂犬のごとく欲望を剥き出しにした浮浪者たちなのだ。

「可愛い顔してりゃ、なにやっても許されると思ったのか?」
と髭の男。

「ずるいことなんて、素人のあたしに出来るわけがないじゃないですか」

「素人の人妻か。こりゃいいや」
と茶髪の男が由香里に歩み寄る。
 それを避けようと後退りした背中に猪男の贅肉(ぜいにく)が触れ、さらには両肩を抱きすくめられてしまう。

「いやっ。放して!」

 由香里が足をじたばたさせると、そのベロアのミニスカートから覗く白い太ももが、彼らの生まれ持った生殖器をいたずらに刺激するのだった。

「なあに、ちょっとした身体検査だよ。それでなにも出てこなかったら、さっきまでの分、耳を揃えて払ってやろうじゃないか」

「あたしの体にひどいことしたら、あとで警察に……」

 そこまで言って、それが出来ないことに由香里は気づいた。育児放棄みたいな真似までして、旦那に黙って生活費を持ち出し、それを賭け事につぎ込んでいるのだ。事情を喋ったところで、
「それこそ自業自得だ」
などとあっさり言われ、自分の手元にはなにも残らないような気がした。
 そんな彼女の心境を見透かしたのか、ふっと力の抜けたその手足に、胸に、内股に、男らの乱暴な愛撫がマシンガンのように繰り出された。

「いやあああ!」

 金属音に似た悲鳴とともに、由香里の着衣は散り散りに引き裂かれ、あとに残ったブラジャーとショーツが唯一の貞操帯に変わり果てた。
 女性用下着売り場に飾られたマネキン、それがいまの彼女の姿なのだった。

「なるほど、なかなかいいもん持ってるじゃねえか」

 この台詞は由香里のバスト、ウエスト、ヒップに向けられていた。適度に脂がのっている。

「自分で脱ぐか、俺らに脱がされるか、どっちを選ぶ?」

「これだけは許してください」

 部屋の真ん中に一人放置された由香里は言いながら、あまりの恥ずかしさに為す術もなく、もじもじと手指を揉んで気を紛れさせている。
 腹部に薄く残る妊娠線の跡にしても、女性器とおなじくらい、誰にも見られたくない汚点なのだ。

「あんた、がきを産んだばかりなのか?」

 相手が目ざとく訊いてきた。
 由香里は頷いた。

「だったらさあ、ご無沙汰している股座(またぐら)の穴が、口寂しいって具合に疼いてんじゃないのか?」

 言った男の目の色が、カメレオンのように変色して見えた。そして爬虫類の長い舌に巻かれ、捕食されるに違いないとも思った。
 髭面の男がぱちんと指を鳴らすと、格下と思われる残りの二人が由香里を前後から挟み、そのブラジャーのカップの中に、ショーツの内側のホットスポットに、がっつりと指を差し入れた。

「やめてえ。いやあ!」

 耳鳴りがするほどの悲鳴が密室に響き渡る。
 そんな由香里の反応を鼻で笑う男と男と男。
 満員電車の中で行われる痴漢行為を錯覚させていながら、しかしその魔手は、由香里の乳首と膣をいじくり鞣(なめ)していた。

「あんたみたいないい女、久し振りだよ」
と悪臭を放ち、
「しこしこしたら、母乳が出るんじゃねえか?」
と乳首をしごき、
「俺の精子を恵んでやってもいいぞ」
と膣内を掻きまわす面々。
 由香里はかるいパニック状態に陥り、酸欠気味に呻いたり喘いだりした。
 彼らに犯される──そう思った瞬間だった。

「そこまでだ」

 鍵のかかっていないドアが蹴破られ、威嚇を含んだ声がした。
 何事が起きたのかと、全員の視線がそちらを睨む。
 すると背広姿の二人組の男が、ずかずかと立ち入ってきた。

「おまえさんたち、こんなところでなにをやっている?」

 鉄砲風を吹きかけるみたいに、訪問者の一人が言った。

「あんたら、誰?」

 髭の男も臆さず言い返す。
 そこで背広の片方が藤川と名乗り、同時に手帳を見せた。次いで年配のほうは大上と自称し、こちらもおなじく手帳を提示した。
 それがどういう意味なのか、その場にいた誰もが瞬時に理解した。
 由香里を取り囲んでいた三人はそれぞれに散らばり、
「刑事が雀荘なんかに、どんな用件で?」
「なにか事件でもあったんですか?」
「この女の子はなんでもないんで」
と口を揃える。
 大上はとりあえず自分の上着を由香里の肩にかけ、
「ここにいる連中に、なにをされていたのです?」
と視線を巡らせた。

「なんでもありません。あたしが勝手に脱いだんです」

 由香里はそう言って背中をまるめた。

「まあ、そのあたりの詳しい話は、あとで聞き取りさせていただきますので」
と厳しい顔つきの大上は由香里に腕を組ませ、
「おまえさんたちにもすぐにお呼びがかかるだろうから、せいぜい外に出ても恥ずかしくない恰好をしておくんだな」
と男らに向かって声を張った。
 それに対して反論する者はいなかった。
 行きましょうか、と藤川が先を促し、続いて大上と由香里も部屋をあとにした。
 あれはどう見ても熊か猪だ──先ほどの男らのうちの一人を思い出しながら、藤川は吹き出しそうになった。




投稿者:いちむらさそり 投稿日:2013/04/19 00:01:50





 彼女はここ一年ほど、毎朝のウォーキングを欠かしたことがない。
 自分の体型にコンプレックスを感じているわけではなく、人並みに生活習慣病へ気を配り、実年齢よりも若く見られたいと願う女心からくるものだ。
 夜明け前の時刻にそれらしい服装で家を出て、近くの公園を周回するコースを辿り、だいたい三十分程度の運動を終えて家に着くことになる。

 今日もいつもと変わらぬ朝を迎え、ほぼ予定通りに門を出た。
 頬にあたる春風も幾分ぬるんできているとはいえ、四十路の身にはこたえる気温である。

「おはようございます」

「あらあ、今朝も早いですねえ」

 すっかり顔馴染みになった婦人と挨拶を交わし、そうして公園に差しかかる頃には体も温まりはじめていた。
 マナーの良い人もいれば、またその逆もいるものだ。公園内にペットの汚物が見あたらない代わりに、家電品などの不法投棄が目立ち、注意を促す看板を立ててみてもなかなか効果が表れないときてる。

 ふとして彼女は公園の片隅で立ち止まり、そこに不審な物があることに気づいた。

なにかしら、これ──。

 使い捨てられた小型の冷蔵庫や電気ポットに並んで、中身が詰まって膨らんだ青いごみ袋が棄てられていた。
 ちょうど人一人が入れそうな大きさだ──彼女がそう思ったとき、ごみ袋がわさわさと動いたように見えた。
 彼女は目をまるくした。このまま放置しておいてもいいのだが、中身が気になって仕方がない。
 そんな好奇心に勝てるはずもなく、彼女は恐る恐るごみ袋の結び目を解き、その中身を見て腰を抜かした。




投稿者:いちむらさそり 投稿日:2013/04/19 00:09:30





「ラーメン、おまちどお」

 白いコック帽を被った初老の店主は、カウンターにどんぶりを置いた。
 客の男はそれを自分の前まで引き寄せると、箸もつけないうちに、
「昔ながらの和風だしの中華そばだね」
などと知ったふうな口を利く。
 店主は面白くない顔をして、
「そばじゃねえ。うちは昔っからラーメンしか出してねえんだ」
と腕組みの姿勢をとった。まさしく労働者らしい太い腕をしていた。
 男性客はスープの中に箸をくぐらせると、そこから引き上げたちぢれ麺を一気にすする。
 そして納得の表情で何度か頷き、立ち上る湯気の中で、美味い、美味い、と絶賛しながら食べつづけた。
 美味くて当たり前だ、と店主は無言で次の仕込みに取りかかる。

「じつはですね」

 客の男があらたまって言った。

「僕はラーメンを食べに来たわけじゃないんです」

 突然なにを言い出すんだという目で、店主は彼のことを凝視した。

「少しだけ、お話を聞かせていただきたいのですが」

 そう言って彼は手帳を示し、加えて北条(ほうじょう)と名乗った。
 店主の顔に焦りの色が滲んだ。

「それってまさか、今朝の事件のことですかい?」

「そうです。あなたの奥さんが公園で発見したという、あの全裸の女性についてです」

「うむ……」

 あまり関わりたくないのか、店主は明らかに狼狽している。
 幸いにも北条以外に客はおらず、込み入った話がしやすい状況ではあった。

「わたしが自分で見たわけじゃないから、正確なことは言えませんがね」

 そう前置きをしてから、ラーメン屋の主は渋々といった感じで喋りだした。

「うちの女房がね、いい歳してるくせに若い恰好でウォーキングをやるわけですよ。なにが楽しくてそんなことをやり始めたんだか。それがねえ、なにをやっても三日坊主だったあれが、めずらしく続いてるじゃないですか。わたしに言わせれば──」

「お話の途中、すみません」

「はあ」

「その部分は結構なので、今朝の状況だけ聞かせてください」

 北条が申し訳なさそうに口を挟むと、空気の読めない店主はきょとんとした。そして中空を漂わせていた目を閃かせ、話のつづきをした。

「そうそう、そのウォーキングコースの途中に、ちょうどあの公園があるようなんです。んで、不法投棄っていうんですかね、壊れた電化製品に混じって大きなごみ袋が放ってあったとかで、その中身を確かめたわけですわな」

「そうしたら中から全裸の若い女性が出てきた、ということですね?」

「はあ。女房はそう言っておりました」

「それは何時くらいの出来事でしたか?」

「どうでしょうな。だいたい五時半から六時のあいだってところですかねえ。何せ女房のやつ、帰るなり床の間にこもってしまいまして、口を開いても曖昧なことしか言わねえんです」

「お察しします」

 北条はゆっくりと瞬きした。

「ところで、被害者の女性の身元についてですけど。青峰由香里という名前に、心当たりはありませんか?」

 若い刑事の問いに、店主は首を横に振った。

「それではあなたの奥さんは、被害者の女性以外に何かを見たり、聞いたりしたということは、おっしゃっていませんでしたか?」

 この問いに対しても、店主の反応はおなじだった。

「わかりました。ありがとうございます」

 北条はスマートに手帳を仕舞った。
 そこでようやく重い荷が下りたというふうに、店主は大きな溜め息をついた。

「最後にもう一つだけ、お願いがあります」
と北条は右手の人差し指を立て、相手の返事を待たずにこう繋いだ。

「餃子も一人前、お願いします」



 北条は店を出るとすぐに手帳を開いた。そしてそこに書かれた文字を事務的に目で追う。
 被害者となった女性は、青峰由香里、二十五歳の専業主婦だ。全裸の状態でごみ袋に入れられ、公園に放置されているところを近所の主婦が発見する。
 命に別状はなく、目立った外傷も特になし。陰部に乱暴された痕跡があり、膣内には複数の男性のものと思われる精液が残留していた。
 ごみ袋の中身については、被害者自身のほかに、辱めに使われたであろう道具が多数見つかっている。ごく一般的なバイブレーターやディルドのほか、小型ローター、シリンジ、首輪とリード、被害者の私物といった具合だ。
 さらに被害者の手足には玩具の手錠がはめられており、口は猿轡(さるぐつわ)で塞がれていた。
 警察側は強姦事件と断定し、犯人捜索に人間を充てるつもりでいたのだが、この件に関して事件性はまったくないと言った人物がいた。
 外でもない、それは被害者である青峰由香里本人の口から出た言葉だった。
 彼女はどうして嘘をついたのだろう──北条は目をしかめ、冷静に次の手を探っていた。




投稿者:いちむらさそり 投稿日:2013/04/20 00:13:26





 藤川透は、居心地わるそうに苦い顔をくり返していた。上からの指示とはいえ、自分一人をここへ来させたことに対し、なんて身勝手で不公平な人選なのだろう、と不満を感じていたからだ。
 とはいえ、いまテーブルを挟んで向き合っている相手は、全身に憂いを纏ったとびきりの美人なのである。
 いつか信号待ちのときに見かけた美しい女が、こうして自分の目の前にいる。

「あのう、ええと、花井香純さん。あなたのご主人、孝生さんのことについて、いくつか質問させてください」

 藤川は生唾を飲み込みながら、露骨に動揺を見せていた。

「私のわかることでしたら」

 香純は伏し目がちにそう応えた。そしてティーカップに手を伸ばし、ロイヤルミルクティーで喉を潤した。
 ここは女性客が多いことで有名な喫茶店のため、平日の今日、こうやってコーヒーを飲んでいる男性客は藤川一人だった。

「ご主人を亡くされたばかりだというのにお呼び立てして、どうもすみません」

「いいえ、そんな。私としても、主人をあんなふうにした犯人を、一日も早く捕まえて欲しいのです」

 このときになっても、香純は顔を上げようとはしなかった。その視線はテーブルに注がれている。

「その犯人についてですけど、そういう人物に誰か心当たりはありませんか?」

「心当たり、ですか」

「ええ。例えばそうですね。ご主人の周辺で、あなた以外の女性の気配があったのかどうか、という意味ですけど」

 藤川のこの問いに、香純は即答できないでいた。
 微かに半開きになった口元に、花井未亡人の白い前歯が見えた。

「なければないで、そう言っていただければ結構です」

「私の知る限り、あの人は女性にだらしない性格ではなかったように思います」

「それじゃあ、金銭的なトラブルは抱えていませんでしたか?」

「ありません」

 そこで香純は鼻の下に指を添え、ぐすっと鼻を鳴らし、恥ずかしそうにお辞儀した。
 植物のように優美なその仕草は、藤川の脳に鮮烈な印象をあたえた。

「花粉症を患っているので」
と彼女から告白され、藤川はようやく自分の誤解に気づく。泣いていたわけじゃないことを知り、安堵とともに鼻息をついた。

「我々もこういう仕事をしていると、人に嫌われることのほうが多くて。そのあたりはご容赦ください」

 藤川がなめらかにそう言うと、水を得た草花のように香純がゆっくりと顔を上げる。そして相手の目を真っ直ぐ見つめ、
「藤川さんは、優しい方なんですね」
と微笑んだ。
 今日初めて目を合わせたこの瞬間、藤川は口の中に甘酸っぱいものを感じた。心拍数が急激に上がっていくのがわかる。

「えっと、話を戻しましょうか」

 心の内を見透かされる前に、藤川は慌てて目を逸らせた。

「私、怖いんです」

 香純の細い声がした。
 藤川がそちらに目を向けると、
「あたりまえに有ったものが欠けてしまって、心寂しいというか、物足りない感じがするんです」
と香純が訴えかけてくる。その気持ちは藤川にもよくわかった。

「女性が独りで暮らしていくとなると、何かと心細いでしょうね」

「はい。両親も早くに亡くしていますので、いまは頼るところがなくて」

 香純は一度、目を伏せた。睫毛の束が下を向くと、その長さがいっそう際立つ。
 こんなふうに対座しているだけで、いよいよ大人しくしていられなくなる予感がして、藤川は話を切り上げようと手帳を閉じた。

「もうご存知かと思いますが、じつは昨日、早乙女町の公園でちょっとした事件がありまして」

 喋りだした紳士の話に興味を示し、香純は頷いた。

「あなたとおなじくらいの年齢の女性が、そこに棄ててあったごみ袋の中から全裸の姿で発見されています。しかも彼女、どうやら強姦された後だったようです」

「知ってます」

 香純の瞳に軽蔑の色が浮かぶ。

「夜に外出しなきゃいけないことだってあるでしょうから、花井さん、あなたも気をつけたほうがいい」

 言いながら藤川は下心を隠していた。

「いいんです」
と香純は言った。

「どうせ私なんかが襲われたって、気にかけてくれる人は誰もいませんから」

「いけません!」

 藤川は声を上げた。客の何人かがこちらを注目している。

「すみません、大声を出してしまって。けど、あなたがそんなことを言ってはいけない。これからあなたはご主人の分まで、ちゃんと生きて行かなきゃならない。自分を粗末にしないでください。少なくとも俺は、あなたという人間に興味があります。だから叱ります」

 失礼します、という台詞を置いて、藤川は席を立った。
 一人残された香純は、空になった目の前の椅子を茫然と見つめていた。



 レジで支払いを済ませて店を出ると、いきなり頭上から冷たいものが降ってきた。傘を持ち合わせていないことに気づき、藤川はしかめっ面で空を仰いだ。

まったく、雨が降るなんて聞いてないぞ。これだから雨男は困る──。

 彼は自虐に浸った。するとその頭に黒い傘がそっと差し出され、
「風邪、ひいちゃいますよ」
と背後で声がした。振り返るのが躊躇われるほど、その声には誘惑の甘みが漂っていた。
 藤川はゆっくりとした動作で、体をそちらに向けた。彼の期待した通りの美しい未亡人が佇んでいた。
 雨はまだ降り始めたばかりらしく、傘を打つ音にも激しさがない。

 じっと見つめ合ったまま黙り込む二人。
 やがて、重要なことを告げようとしている香純の雰囲気を察して、藤川は半歩だけ前へ出た。そして香純の紅い唇に注目していると、そこからとんでもない事実が漏らされた。

「私、じつは………………なんです」

 こんなときに限って、春雷による稲光と雷鳴が、ごうごうと辺りを包み込んでしまった。
 それをきっかけに雨足は強まり、しだいにアスファルトを煙らせていく。
 しかし藤川は確かに聞いた。花井香純という女がほんとうに言いたかった、その言葉を。




投稿者:いちむらさそり 投稿日:2013/04/20 23:14:17





 神楽町で起きた通り魔事件では、花井孝生という警備員の男性が殺害された。
 早乙女町で起きた強姦事件では、青峰由香里という主婦が被害に遭っている。
 それぞれの町で起きたこの二つの事件に共通点はない──。

 北条にとって、これは一種の賭けであった。刑事の直感とも言えるかもしれない。
 双方の現場の位置関係が近距離にあること、発生日時が近いこと、たったこれだけの材料で決めつけてしまうわけにはいかないが、二つの事件はきっとどこかで繋がっているのだと彼は睨んでいた。
 だとしたら、その犯人はいったい誰なのか。山積している課題を地道に調べ上げていけば、おのずと解答は得られるはずなのだ。

 通り魔事件の現場となった路上に彼は立っていた。アスファルトを掘り起こした跡があちこちにあり、キルト生地を縫い合わせるようにして四角く舗装されている。
 それは北条の目から見ても、けして丁寧な仕事とは思えなかった。

 花井氏が刺されたとみられる夜の十一時頃に、その付近で犯人らしき人物を目撃したという女性がいた。警察にその一報が入ったのは、事件発覚からおよそ一時間後のことだった。
 彼女の証言によれば、自分はちょうど帰宅途中で、現場方向へ歩いていたところ、不審な人物とすれ違ったと言う。
 不審な点は二つあった。
 一つは、その人物は上下とも黒い服装をしていて、夜中に出歩くにはふさわしくない恰好だったこと。
 そしてもう一つ、黒い折りたたみ傘のような物を所持していたことだ。事件当夜は雨など降っていなかったのだ。
 また、性別などもわからないと付け加えていた。
 その人物が犯人かどうかは不明だが、重要参考人としてマークする必要がありそうだと北条は思った。

「おっとっと」

 彼がそんなふうにひょうきんな声を発したのは、内ポケットの携帯電話が震えだしたからだ。相手の番号を確認した上で、北条は電話に出た。

「もしもし、北条です。……ええ、……そろそろあなたから連絡が来るだろうと思っていたところです。……はい、……やはりそうでしたか。……ご協力、ありがとうございました」

 電話の相手に礼を述べると、北条はすぐに手帳へ何かを書き加えた。その流れで閉じた手帳で今度は、ぱしん、と手のひらをしっぺ打ちした。
 余白のページが数行埋まったことにより、少しだけ重みが増したようにも感じる。

いや、気のせいか──。

 そうやっておどける刑事の耳の奥に、先ほどの電話でやりとりした女の声が、まるで蜘蛛の巣のようにねっとりと絡まっていた。




投稿者:いちむらさそり 投稿日:2013/04/20 23:29:13





 林檎に毒を盛った魔女と、まんまとそれを利用した白雪姫。いまの自分の中には、果たしてどちらの『女』が存在しているのだろうか──。

 通話を終えたばかりの携帯電話をダイニングテーブルに置き、香純は悩ましくため息をついた。発信履歴には『北条』と表示されている。
 夫を亡くしてからというもの、自分を取り巻く環境は目まぐるしく変化しているというのに、その中心にいる自分だけが取り残されているようで、香純は言いようのない孤独を感じていた。
 通夜や告別式こそ気丈に振る舞っていたのだが、初七日法要を終えた頃になると、夫の遺骨を前に物思いに耽ることが多くなっていた。
 この現実を受け入れるには、もうしばらく時間が必要な気がした。

「あなたはもういないのですね」

 香純は呟きながら遺影の正面に立ち、ゆっくりと両膝を折っていく。そして線香をあげて合掌すると、すうっと立ち上がり、両肩を抱きすくめるようにして着衣を脱ぎ落とした。
 黒のワンピースの次に、おなじく黒いスリップを、ついには黒で揃えた下着をするりと脱いでしまった。色白の裸体の足元で、黒い衣がとぐろを巻いている。

「この痣(あざ)が消えてなくなったとしても、あの頃の私にはもう戻れない。せっかく女として生まれてこれたのに、こんな体、誰も愛してくれないでしょう」

 そう言いながら香純は自分の腹部に視線を流し、そこに残る醜い痣を指でなぞった。赤紫色のそれは、ちょうど林檎大くらいのまるい形を浮き上がらせている。
 痛くも痒くもないが、一生消えることはないと医師からも告げられていた。忘れたくても忘れられない忌まわしい記憶が、香純の美しい皮膚に寄生しているのだ。

 涙は、遠いむかしに置いてきたつもりだった。こんなふうに裸体を晒すことに抵抗を感じなくなるまで、どれくらいの時間を費やしただろう。
 それを思うと、抑えていた感情が涙となってぽろぽろと溢れ出してきた。と同時に、膣に微熱を感じる。

 濡れている──香純はそう思った。指先の感覚だけで確かめてみると、ほんとうに濡れていた。
 家には自分独りきりなのだ。今ここで、秘め事を楽しみたいと思っている。
 喪に服した身でありながら、香純は畳の上に寝そべり、両膝を立てて開脚した。そしてその中心にある皮膚の花びらへ右手を伸ばし、左手で乳房をむずむずとまさぐった。
 さっきよりも息が荒くなってきている。指の腹で乳首をころがすと、そこは銀杏みたいに硬かった。それでいて快感が詰まっている。
 あっ、と反応する自分の声に恥じらいながらも、下半身の割れ目を容赦なくこねくりまわす。
 ぴちゃぴちゃと音をたてる指と陰唇、ときどきクリトリス。莢豌豆(さやえんどう)の豆を剥き出し、甘い刺激をあたえた。
 しだいに敏感になって、神経が毛羽立っていくような感覚を知る。上唇と下唇とをすり合わせ、うっとりと目を閉じると、実体のない人影に犯されている場面を想像した。
 執念深い指使いが、体中を這いずりまわる舌の動きが、凶暴な男性器から注がれる歪んだ欲望が、香純のイメージ通りに快感を浴びせてくる。
 強姦された暗い過去は封印したはずなのに、妄想の中の自分は、その禁断の味に悦びを感じているのだ。
 憎たらしい男を受け入れることで、女の部分を満たし喘いでいる。

 狂っている──香純はそう自嘲した。家の外に出れば貞淑な良妻の顔を通しているけれど、こんなふうに人目を遮断してしまえば、あとはもう行き着くところまでどこまでも堕落していくのだ。
 気がつけば三本もの指が膣を出入りしていた。動きは大人しめでありながら、得られる快感は果てしなく、病的なまでに身を滅ぼしていく。

気持ちが良すぎて、しんでしまいそう──。

 香純は身を起こした。そして膣から指を引き抜き、白濁の糸を引いたそれを口にふくみ、味わうようにしゃぶる。そこでも糸が垂れた。

 体の芯が物足りなさで疼いていた。火照りが冷めないうちにその足で玄関に向かい、棚に飾られた民芸品を物色した。
 ふとして靴脱ぎの先に目をやると、そこには紳士用の履き物があった。夫である孝生のものだ。
 その靴を履いてこちらを振り返る孝生の姿が目に浮かぶが、香純はすぐにその光景を払拭し、民芸品の一つを手に取った。自慰のつづきを、これに頼るつもりなのだ。
 香純はしばらく手の中で、その『こけし』を可愛がるように扱った。
 それに飽きると今度は玄関ドアを正面にして立ち、片足を壁にかけ、片手で反対側の壁を支えにいく。利き手には『こけし』が握られている。

 昼下がりに乱れ散る哀れな未亡人のことを覗き見る者はいない。それでもドアの向こうに人の気配を期待しながら、香純は『こけし』を握りなおし、調わない呼吸に肩で息をする。

 ここが入れるタイミング──そう思った瞬間、香純のおもちゃは鈍い音をたてて、膣深くにまで埋没した。
 はあああ、と長い吐息で緊張を抜く。そうして『こけし』を握った手をひくひくと動かせば、極まった快感が膣と脳とをつないで痺れさせた。
 爪先にまで力が込もっているせいで、微かに指先が白い。
 知らず知らず込み上げてくる声は、いやらしいピンク色に染まって耳にとどく。
 湿る肌、猥褻な唇、揺さぶられる乳房、あらゆる部位が無防備に露出している。
 もしもこの姿が人目に触れたなら、自分はあっという間に絶頂へ達してしまうだろうと香純は思った。

いくう……、いくう……、あああいくう──。

 骨盤が小刻みに震え、挿入をくり返す姫穴から吐き出されるものが、板張りの床に液溜まりをつくっていく。つつつと滴ったり、ぽたぽたと撒き散らしたり、行儀の悪い女を演じているのだ。
 そうして意識の糸が切れるまで、膣の口径を広げながらいじくり尽くしていく。

やめてください……、私には主人が……、ああもうだめになりそうなんです……、何も言えなくなってしまう……、どうか許して……、だめ、だめ、あああ、いい、いく、いく──。

 下腹部がよじれ、胸はきゅんとくすぐったい。
 そうして香純はその場に崩れ落ち、巾着を絞めるように局部を痙攣させていた。
 こんなことまでしているのだから、アブノーマルな女だという自覚はある。しかしこんな体質になってしまったのは、あの事件を体験したからではないのか、と香純はまた古い記憶を思い起こして遠くを見つめた。

 そんな時、家のインターホンが鳴った。玄関口の小さな窓に人影がある。
 香純は汚れにまみれた『こけし』を床に転がし、全裸のまま受話器を取った。

「はい」
と応答しながら壁に寄りかかる。

「宅配便です。花井香純さんはご在宅でしょうか?」

「私ですけど」

 体育会系の雰囲気がある声を相手に、香純は気持ち良く応対した。

「印鑑、いただけますか?」

「少しお待ちください」

 香純は丁寧に受話器を戻すと、さっき脱いだ黒色のワンピースだけを着て、印鑑を手に玄関ドアを開けた。暖かい陽気を浴びた外の空気が、香純の足首を撫でた。
 宅配業者の人間は若い男だった。

「ごくろうさまです」

「こちらに印鑑だけ、お願いします」

 香純は伝票に押印し、荷物を受け取った。
 たったこれだけのやりとりのうちに、香純は彼の視線が気になっていた。前屈みの姿勢で印鑑を押した時には、彼の視線は胸元にあてられていて、だから香純は胸元を手で隠す仕草をした。それからしゃがんで荷物を受け取った時などは、擦り上がったワンピースの裾から中身を覗き込む彼の目に気づき、さり気なく着衣をなおした。
 下着を着けていないことが彼に知られたら、きっとただでは済まないだろう。しかも体の芯はまだ興奮が冷めないでいるのだ。

「あの……」
と男の口が動いた。
 香純は目の表情だけで、何か?と聞き返す。
 男は目の前の美女から視線を逸らし、棚の『こけし』に注目した。妄想はすぐに膨らんだ。
 いまここでこの人を押し倒して、あれを体に突っ込んだり、めちゃくちゃにレイプして気絶するほど逝かせてみたい。それが無理なら、あれを使ってオナニーに狂うこの人の姿を見てみたい。いや、きっとどちらも叶いっこない。外見が綺麗な女の人はそれなりに節操があるし、下手な誘いには見向きもしないだろう。自分とは住む世界が違う。そういう目には見えない境界線を越えた時、自分は犯罪者になっているはずだ──。

「どうかされました?」

 ワンピース姿のお姉さんに声をかけられ、男はようやく妄想から覚めた。みっともない顔をしていたに違いなかった。

「ありがとうございました」

 男はすぐに仕事の顔を取り戻し、花井家を出た。
 最後に口から出た礼は、妄想のヒロインになってくれてありがとうございました、という意味で言ったつもりだった。




投稿者:いちむらさそり 投稿日:2013/04/21 11:38:02





 『雀荘ドラゴンヘッド』の看板に灯りが灯ったのは、陽も暮れかけた午後五時くらいのことだった。
 五分ほど前に三人の男らが店内へ入っていくのを目撃しているので、北条は同行の人間に合図を送り、二人して行動を開始した。
 薄暗い店の通路はかなり狭くなっており、よっぽどの理由でもないかぎり、一般人が好んで足を踏み入れるとは思えないほど汚れている。

「幽霊屋敷みたいですね」
と愚痴ったのは、北条の前を行く五十嵐(いがらし)という刑事だ。三十八歳の北条から見たら、ちょうど五年後輩ということになる。

「さっそく怖じ気づいたのか?」
と北条。

「いいえ、わくわくしているところですよ」

「相手は幽霊なんかよりたちが悪いかもしれないんだ。油断するなよ?」

「もちろんです」

 気合いを入れなおしたところで、二人は軽快に階段を上がり、目的の部屋へと踏み込んだ。
 学校の教室ほどの広さがある部屋に、点々と雀卓が置かれていて、すでに何人かの客が麻雀に興じていた。看板に灯りがなくても、営業自体はすでにやっていたようだ。

「お楽しみのところ、申し訳ありません。ここのマネージャーに会わせてください」

 五十嵐は手帳をちらつかせながら、フロア全体に声を響かせた。
 客は皆一様にこちらを振り返り、ある者はその目に殺気さえ滲ませていた。
 間もなく奥のドアが開き、髭面の男が顔を覗かせた。そして二人の刑事を睨みつけたあと、こっちへ来いというふうに顎で示し、北条と五十嵐を事務所へ招き入れた。

「我々がここに来た理由については、説明を省かせてもらいます」

 がらの悪い三人の男を前に、北条は凛とした態度で切り出した。

「俺がマネージャーの馬渕(まぶち)だ」
と髭の男が偉そうな口調で言った。椅子に座ったまま、両脚を机の上に投げ出している。
 北条は一枚の写真をその机の上に出し、
「この女性がここに訪れたことがあるはずなんですが、見覚えはありませんか?」
と馬渕を見下ろしながら尋ねた。
 ほかの仲間二人は馬渕の出方を窺っている様子で、なかなか口を開こうとはしない。

「嘘の証言をしても、どうせ後でわかることだ」

 五十嵐はやや強めに警告した。

「この写真の女性、名前は青峰由香里、二十五歳の専業主婦だそうです」

 北条がそう念を押すと、
「確かにここへ来た」
と馬渕が口を割った。続けて、
「ここには来たが、ほかの客に混じって麻雀をした、ただそれだけだ」
と断言した。

「じつは彼女、この雀荘を訪れたと思われる翌日の早朝、早乙女町の公園で発見されています」

「だから何だ?」

「喋れなくなるほど性的暴行を加えられたあと、ごみ袋に入れられた状態で放置されていたのです」

 北条のこの言葉に、馬渕を含めた三人の顔に動揺の色があらわれた。

「俺らはほんとうに何も知らないんだ。ちゃんと調べてくれ」

 馬渕が目を剥いて訴えてくるのを北条は手で制し、新たな写真二枚を提示して、
「そこでです」
と改まった。

「この男性二人の顔に見覚えは?」

「ああ、この刑事ならよく覚えてるよ。こっちが大上で、こっちが藤川、だろ?」

 馬渕の証言を聞くなり、北条と五十嵐は顔を見合わせた。

「彼らはここで何をしていたのでしょう?」

 北条がさらに追求する。

「何って、そりゃあ、あんたらとおなじ刑事なんだ。そっちで話はついてるはずだろう?」

「先ほどの青峰由香里絡みの内容、というわけですね?」

「とぼけやがって」

 そう言って馬渕は、ふん、と鼻から息を吹いた。
 今度は自分の目の前で二人の刑事がこそこそやり始めたもんだから、それが余計に気に入らない。
 税金の無駄遣いばかりしやがってと言わんばかりに、馬渕は煙草に火をつけ、その煙で彼らを追い払おうと目論んだ。しかし効果はあまりなさそうだった。

「すみません、最後の質問です」

 この台詞を言ったとき、北条は目に意識を集中させた。そして冷静に相手を見据え、
「青峰由香里は、どのような経緯でこの雀荘を訪れる気になったのでしょうか?」
と迫った。
 相手の返答しだいでは、吉にも凶にも転ぶ可能性がある。

「顔見知りの女に薦められたみたいだぜ」

 馬渕が喋ったこの事実を聞いて、ここが事件のターニングポイントになるだろうと、北条は手応えを感じていた。




投稿者:いちむらさそり 投稿日:2013/04/21 11:51:10

10



 銀行員としてのキャリアがまだまだ不足しているのだと、つい先日、月島麗果(つきしまれいか)は上司から叱責されたばかりだった。
 毎日おなじ窓口に立ち、相手の顔色を窺いながら愛想笑いをつくる、それがどうも自分には向いていないんじゃないかと思うようになっていた。
 大学を経て、大手銀行に就職が決まったまでは良かったのだが、その後はずっと下り坂だった。
 職場でのセクシャルハラスメントは特に酷かった。
 胸やお尻を撫でられることが何度か続き、そういうことはやめてくださいと反抗すると、今度は個室に呼び出されるのだ。
 予想通り、仕事とはまったく関係のない質問責めに遭った。
 恋人はいるのか、処女喪失は何歳で相手は誰か、自慰行為の頻度や特別な嗜好品があるのかどうか、およそ女性が答えられないようなことばかり訊かれたりした。
 上司からの命令だと凄まれたら、すべて正直に告白するしかなかった。

 そしてある日、麗果は仕事でミスをした。金額を一桁間違って入力してしまったのだ。それには理由があった。
 麗果がミスをしたその日、彼女の膣内にはバイブレーターが仕込んであった。当然、上司がそうするように命じたのだ。
 そして麗果が澄まし顔で接客している最中(さなか)、玩具は遠隔操作され、彼女はそこで人知れず快感を味わっていた。
 そこでミスが起きたのだった。
 麗果はふたたび上司に呼び出され、愛液で汚れたショーツを手に、言葉の圧力を受けた。
 システムの誤作動によるものならまだしも、これがヒューマンエラーなら君の責任は重大だ、と。
 そして彼女の救済方法として、男性上司はオーラルセックスを要求してきた。
 麗果は戸惑いながらも、その条件を呑む意外に選択肢はないのだと思い込んでいた。
 稚拙なフェラチオで精液を飲まされたあと、今度は麗果が舐められる側になった。
 濃密で汚らしいクンニリングスの果てに、麗果は何度か絶頂した。

 そうやって今日までの出来事を振り返ってみて、退職願も出せないでいる自分自身がとても情けなかった。
 いまの仕事を辞めて永久就職をしようにも、相手の男性にまったくその気がないのだ。
 こんなふうだから、仕事にも私生活にも嫌気が差していた。

 仕事帰りの夜道を一人で歩き、なんとなく見覚えのある歓楽街にたどり着くと、麗果は一軒の店に目星をつけてそのドアをくぐった。
 淫靡な匂いに包まれた店内は何とも言えず独特で、一寸先も見通せない表社会とは裏腹に、どこか金銭感覚を麻痺させる毒素が漂っているようにも見えた。

「いらっしゃい。このあいだはどうも」
とニューハーフのママがこちらに愛想を送ってくる。
 麗果は会釈を返し、
「おいしいお酒、今日もおねがい」
と気取った文句を添えた。

「うちのお店に、まずいお酒なんてあったかしら」

「確かに、ここの人は男か女かはっきりしていないけれど、お酒の味だけははっきりしてる」

 そうやって洒落を利かせて笑顔になったあと、麗果は空席に腰掛けた。
 すると彼女の両隣もすぐに埋まる。どちらもニューハーフだ。

「麗ちゃん、また来てくれたのね。嬉しいわ」

 ブロンドのかつらを着けたナオミがグラスにシャンパンを注ぐ。

「あたしも、麗ちゃんと再会できて、興奮で髭が伸びちゃうかも」

 そんな自作のジョークに爆笑するのはローズだ。
 そうやって笑いが絶えないまま乾杯が終わり、それぞれに言いたいことを喋っては、食べて、飲んで、また談笑した。

 こういうお金の使い方もあるのだと提案してきたのは、銀行の窓口に訪れた一人の女性客だった。
 近いうちにかなりの額のお金を相続するかもしれないということで、その運用方法についての相談を受けていたのだ。
 そして何かの拍子で世間話になり、そこでホストクラブの話題が持ち上がった。
 いきなり免疫のない高級店に行くのは危険なので、まずはニューハーフあたりを相手に場数を踏み、雰囲気に馴染んでおいてからのほうがいいかもしれないと、その女性客は親切に助言してくれたのだった。
 まわりから性的嫌がらせを受けていた時期と重なり、麗果はそこに現実逃避への抜け道を見出していた。
 遊ぶ金はすぐに準備できた。彼女は銀行の金を着服したのだ。
 もうおしまいだという罪悪感が消えることはなかったが、とにかく現実から逃げ出したかった。

「そんなに思い詰めた顔しちゃって。彼氏と喧嘩でもしたの?」

 我に返った自分のすぐそばに、ナオミの厚化粧の顔があったので、麗果は無理矢理笑ってみせた。私情を悟られるわけにはいかないからだ。

「ううん。なんでもない」

「そういう男関係の愚痴なら、いくらでも聞いてあげるからさ。なんてったってあたしたち、中身は乙女なんだもの」

 ローズもそうやって麗果を気遣う。
 湿っぽく飲むためにここに来たわけじゃないことを思い出し、麗果は明るく振る舞った。

「ありがとう。それじゃあ今夜は、とことん飲んじゃう」

 みんなでグラスを重ねると、嫌なことがぜんぶ吹き飛んでいくような気がした。

「いらっしゃ……」

 途中まで言いかけて、店のママであるアゲハは表情を曇らせた。
 新たな来客があったにもかかわらず、歓迎ムードがまるでない。
 新顔は男二人。どうやら酒を飲みに来たわけではなさそうだと、店内の誰もがそう推測した。
 彼らはカウンターまで一直線に歩いて行くと、アゲハに向かって、
「こういう者だ」
と手帳を振りかざした。

「この店に、月島麗果という女性が来ているはずなんだけどね」

 藤川透はカウンターに身を乗り出して尋ねた。

「あたしは知らないわよ。だいたい客の名前なんて、そんなのいちいち覚えてらんないわ」

 アゲハは煙管(きせる)片手に軽くあしらった。そしてさり気なく、ナオミとローズに合図を送る。

「ここにいるっていう匿名のタレコミがあってね。我々としても動かないわけにはいかくなった、とまあそういうことだ」

 大上次郎は、わざと抑揚のない物言いをした。

「その女の人が何をしたのか知らないけど、冤罪を生むのだけはもう勘弁してよね。あなたたち警察の人間はね、一般市民から反面教師にされているのよ。これって、どういう意味だかわかるかしら?」

 たかがニューハーフのママからそんな説教を聞かされ、大上と藤川はリアクションに困った。酒の一杯でも飲みたい気分だった。
 その時、店内の照明がふっと消え、次の瞬間には悲鳴が飛び交っていた。
 グラスをひっくり返す音、走りまわる足音、そしてドアが閉まる音がした。
 それから数秒のあと、何の前触れもなく店内はまた明るくなり、騒ぎもおさまった。
 カウンターの奥でただ一人、アゲハだけがポーカーフェイスで佇んでいる。
 背後の壁には照明のスイッチがあり、そこに目をつけた大上は、
「やりやがった」
と歯ぎしりをした。いまの停電の騒ぎに紛れて、月島麗果は店の外へと逃がされていたのだ。
 大上はそのまま藤川を連れて、振り返ることなく店を出た。

「ざまあみやがれ」
というブーイングが、藤川の背中に命中した。




投稿者:いちむらさそり 投稿日:2013/04/23 16:01:49

11



 大上次郎、藤川透、この二人が所持している警察手帳は偽造されたものであり、彼らもまた偽物の刑事だということは突き止められた。
 そしてそれらの肩書きを悪用し、青峰由香里レイプ事件に何らかのかたちで関わっていることもわかった。
 彼らが直接犯行に及んだのか、それともまだほかに仲間がいるのか、現時点では有効な手掛かりと言えるものが不足していた。
 そんなふうにこれまでに収集してきた情報を解析しながら、北条は缶コーヒーのプルタブを開け、口をつけた。
 気象庁からの発表によれば、今朝は二月上旬並みの冷え込みが予想されており、なおさら温かい飲み物の有り難みが体中に染み渡った。
 彼の脳裏には今、ある人物の顔が描かれていた。神楽町通り魔事件の被害者となった花井孝生の妻、香純だ。
 刑事を語る藤川透の素性を明らかにできたのも、彼女の協力によるものが少なからずあったのだ。
 ある犯罪組織が、あらゆる事件の水面下で暗躍しているという噂は、以前から警察の耳にも入っていた。
 そこで今回、大上次郎と藤川透という刑事を名乗る両者に着目し、さらに北条独自のルートにより、藤川透が花井香純に接触するであろう情報まで得た。
 北条はすでに、通り魔事件が起きたときに彼女との接見を果たしている。連絡先はその際に教えてあった。
 北条は香純にこう言った。

「藤川透という男があなたに会いに来たら、彼が所持している警察手帳を見せてもらってください。そして僕がこれから言う箇所を、その目でよく観察してみてください。いいですね?」

 その後、警察手帳の真贋を見極める方法を、北条は香純に伝えたのだった。
 そうして後日、彼女から連絡があった。その内容は北条が思い描いていた通りの答えだった。

「それにしても、未だに信じられませんよ」

 運転席の五十嵐が、突然そんなことを口にした。

「なんだ、また幽霊の話か?」
と北条が茶化す。
 二人を乗せた車は、道幅の狭い県道を走っていた。

「違いますよ。あの花井香純が、まさか自分の夫に多額の保険をかけていたなんて、思ってもみませんでした」

「だからといって、彼女が犯人だと決まったわけじゃない」

「これからそれを確かめに行くわけですよね?」

「そういうことだ」

 フロントガラスを撫でていく木の葉の影が、二人の視界をかすめていく。
 そうして間もなく森林を抜け出し、少し拓けた場所に車を停めると、五十嵐、北条の順に車から降りた。
 すぐ目の前に白い建物が立ちはだかっている。『聖フローラル学園』という文字が、白壁の門のところに彫刻されていた。
 その児童養護施設を目の当たりにしてみても、恵まれた環境で育ってきた五十嵐にとっては、現実として酷く受け入れ難い光景でしかなかった。
 複雑な思いを抱いたまま、二人は建物の入り口へと足を運ぶ。そのドアが内側へ開き、女性職員が彼らを出迎えた。
 あらかじめ連絡してあった通り、面会室で話をすることになった。
 四十歳ぐらいの彼女の容姿は飾り気がなく、どこにでもいる主婦のように見える。
 子どもが二、三人いたとしてもおかしくないだろう、と五十嵐は余計な詮索をした。

「この写真の女性が、いまの香純さんです。現在、二十八歳になられてます」

 北条はそう言って、一枚の写真を彼女に見てもらった。
 女性職員は返答に困り果てた様子で、
「そうでしたか」
とだけ言った。
 それもそのはずだろうと、北条は写真と彼女の顔とを見比べた。彼女は花井香純とは面識がないのだ。

「まえの園長から聞いた話というのを、我々に教えていただけますか?」

 五十嵐の腰の低い口調に促され、婦人はしんみりと頷いた。

「園長は生前、ある女の子の話をよく私に聞かせてくれました。十一歳でこの施設に預けられたその子の両親というのが、母親はともかく、父親のほうがかなり問題のある性格だったそうです。自分はろくに働きもせず、それでいて母親が苦労して稼いできたお金を湯水のように遣い、よその女を平気で家に連れ込んだりもしていたらしいです。それから……」

 その先が続かず、彼女は膝の上で握り拳をつくった。そして絞り出すような声で、
「その子は実の父親に、……犯されたのです」
と感情的に語った。おなじ年頃の娘がいるのか、力の入り具合が尋常ではない。

「すみません。みっともないところを」
と詫びる彼女に、北条は無償の笑顔を向けた。

「構いませんよ。我々が勝手にこちらに押しかけたのが悪いんですから。あなたはただ、ありのままを話してくれるだけでいいのです。その内容しだいでは、間接的にではありますが、不幸な一人の女性を救うことができるかもしれない。今回のことであなたに危害が及ぶこともありませんので、どうかご安心ください」

 意外なほど紳士的な態度をとる刑事のおかげで、施設の女はようやく平常心を取り戻し、ぽつぽつと続きを話した。

「そんなふうに、あってはならないことが実際にあったわけなんですけど、結局その出来事が引き金となって、彼女の両親は離婚したのです。もちろん、彼女は母親に引き取られました。ですが、その後の母と子二人きりの不自由な生活で、母親の寿命はあっという間に削られていくことになるのです。とうとう自分一人では娘を養っていけないと思ったとき、母親は最愛の家族を手離す決心をして、この施設を訪れました。ほんとうに、どれだけ辛い決断だったことか、私には想像もつきません」

 この頃になると、彼女の姿勢もすっかり俯いてしまい、五十嵐は申し訳ない気持ちでいっぱいになった。しかし、かけてやれるだけの言葉が何も出てこない。

「その時に引き取った女の子が香純さん、ということで間違いありませんか?」

 北条が問いかけると、
「まえの園長からは、そう伺っています」
と彼女は相槌を打った。

「それでは香純さんのご両親についてですが、いまはもう亡くなられているということで、こちらも間違いありませんね?」

この質問に限っては、
「誰がそんなことを?」
と女性は怪訝な表情をする。

「それは、香純さん本人の口から聞きました」

 五十嵐が告げた。

「まさか。だってその子の母親からは、こちらの施設宛てに寄付金が毎年のように届いているんですから。大した金額ではありませんけど、その子がここを巣立っていった翌年から、ずっとです」

 一体これはどういうことだと、五十嵐は北条と顔を見合わせた。先輩刑事の表情は、それほど意外そうな様子ではなかった。

「香純さんの母親から届いたというその封筒を、ぜひ拝見したいのですが」

 言いながら北条が手を差し出すと、すでに準備してあったのか、女性職員はバッグから茶封筒を取り出して彼に手渡した。
 確認してみると、裏面の住所のあとに『三枝伊智子』とある。花井香純の旧姓が三枝(さえぐさ)だということをそこで知った。

「父親のほうは?」
と五十嵐が尋ねると、彼女は首を横に振った。
 かと思うと、
「そういえば、一つ思い出したことがあります」
と大げさに目をぱちくりさせた。

「三枝香純さんは、白雪姫にとても強い興味を示していたそうです。と言っても、この施設で行われた演劇の白雪姫のことですけど」

「白雪姫?」

 北条は瞬時にアンテナを張った。

「ええ。普通ならもう、白雪姫なんかは卒業している年頃なんでしょうけど、彼女の中の白雪姫は、かけがえのない永遠の存在だったようです」

 そこまで聞き終えると、北条は顎をさすりながら考え事に耽った。頭にぴんとくる答えが浮かびそうで、その都度うんうん唸っている。
 そんなとき、彼の携帯電話に新しい知らせが入った。それは意外にも、藤川透が出頭したという内容のものだった。




投稿者:いちむらさそり 投稿日:2013/04/25 22:22:24

12―1



 指紋やDNAを採取されたあと、藤川透は殺風景な部屋の中で取り調べを受けていた。ここ数日のあいだに、こうやって心を入れ替える気になれたのも、失いたくないものが出来たからだろうと考えた。
 自分はもうすぐ父親になるのだ。今日という日が更生への第一歩になるのなら、あるいは愛する者たちの平穏な暮らしが約束されるのなら、どんな罰でも受けようと覚悟した。
 誤算があったのだとしたら、それは、ある人物と出会ってしまったことに他ならないのだが──。

「大上次郎の携帯電話に匿名のタレコミがあり、刑事を装ってその雀荘に乗り込んでみたところ、そこに青峰由香里がいたと、つまりこういうことか?」
と五十嵐に睨みつけられたので、藤川はふてぶてしく頷いた。無造作に生やした顎髭が、せっかくの甘い人相を悪く見せている。

「電話の相手に心当たりはないのか?」

「ありません」

「その人物はどうやって大上次郎の番号を調べたんだ?」

「知りません」

「じゃあどうして彼女を狙ったんだ?」

「依頼されたんです」

「誰に?」

「そのときの電話の相手にです」

 五十嵐はここで小休止した。重要なポイントだと察知したからだ。

「組織の人間から指示されたわけじゃないんだな?」

「通常なら、上からの指示があって俺らは動くことになっている。だけどあのときは違った。それからこれは後で知った話なんだが、あの青峰由香里っていう女、ある男と深い繋がりがあったわけなんだよね」

 そうやって勿体ぶる藤川の思惑にはまらぬよう、五十嵐は相手の目を注意深く覗いた。

「じつは彼女、神楽町の通り魔事件で刺された花井孝生って男と、どうも不倫の仲にあったみたいなんだ」
と藤川は言った。
 もしそうだとすれば、花井氏の妻である香純が、夫と青峰由香里が密かに会っていることを知り、その不倫相手をレイプするよう大上次郎に依頼したということになり、筋も通る。先の保険金のことも考慮すれば、花井香純には夫殺しの動機が十分あるように思える。
 しかし、と五十嵐は思う。果たして彼女がそこまで思い詰めていたかどうかとなると、首を傾げなくてはならないのだ。

「青峰由香里を拉致したあと、彼女の身柄はどうなったんだ?」

 五十嵐は追求した。

「いくつかの風俗店が窓口になっていてね、さらった女の子はとりあえずそこに監禁しておくわけさ。そこに客が来て、気に入った女の子を金で買い、あとは好きなように楽しむ、そういうシステムになっているんだ。女なんて所詮、金の生(な)る木さ。いや、金の湧き出る泉か」

 造作もなく藤川が言うもんだから、五十嵐はつい冷静さを欠き、憤慨を露わにしようと出た。

「藤川。貴様、自分が何をしたのかわかって──」

 そのとき、ずどん、という物音とともに、目の前のデスクに何者かの握り拳が打ちつけられているのが見え、その衝撃でデスクの一部が沈んでいた。
 驚いた藤川は思わず上体を仰け反らせ、握り拳の持ち主のほうへ目をやった。そこには北条がいた。動物的な鋭い眼光を放つ、相手の心を読み取らんとするその眼差しに射抜かれ、藤川は口のはじを引きつらせた。

「君は、そんなことを言うために自ら出頭してきたのか?そうじゃないだろう。ある人物と出会ったことで、君の中の何かが狂いだした。そして相手の本質を知れば知るほど、その人物にのめり込んでいく自分を感じた。品定めをし、クライアントに引き渡さなくてはいけない『商品』だとわかっていながら、君自身が生んだ独占欲はもはや手に負えないほど大きく膨らんでいた。しかし君は知ることになる、彼女がある事件の容疑者にされようとしていることを。そこで君は悩み考えた。自分の知り得た情報を警察に提供することで、捜査の針路を彼女以外に向けることはできないだろうか、とね。そうすることによって彼女に貸しをつくり、藤川透という男の印象をより強いものにしようとした。違うか?」

 できるだけ感情的にならぬよう、北条は語気を緩めて言った。
 藤川はすぐには反応できなかった。五十嵐とのやり取りのあいだは一言も口を挟もうとしなかった北条が、この場面ではじつに滑らかに、そして被疑者の内心を見透かしたような態度で責めてきたからだ。
 彼の言う通りだった。初めて花井香純という女性を目にしたときから、自分は彼女に惹かれていた。そしてあの喫茶店で彼女との再会を果たしたとき、もやもやしていた気持ちは確信に変わり、持て余した。

「俺、いつか香純さんから告白されたことがあるんです」

 諦めに似たものを口元に浮かべ、初恋を語るときの面持ちで藤川は喋りだした。




投稿者:いちむらさそり 投稿日:2013/04/25 22:33:45

12―2



「上層部の人間からの指示で、花井香純という女性の査定を任された俺は、彼女と対面した途端に鉄の仮面を剥がされました。分かり易く言うと、自分を見失ってしまったんです。柄にもなく相手の女性を意識し、緊張して、あっという間に彼女の中に取り込まれた。主導権を奪い合うような駆け引きをする気にもならなかった。人間としての魅力に欠ける自分と、先天的に魔性の部分を持って生まれた彼女とでは、そういう対象にすらならないと思い知ったんです。そうしてその日の別れ際に、俺は彼女の口からとても残酷な事実を聞かされました。それは彼女がまだ小学生だった頃に、実の父親から性的暴行をくり返し受けていたというものでした。俺、もう、どうしたらいいのか、わかんなくて、だから」

 藤川は言葉を詰まらせた。そして体力を消耗したときのように肩を落とし、うなだれたかと思えば、また勝手に話しだす。

「気がついたら俺は香純さんの家にいた。雨に濡れた上着をハンガーにかけると、自然とそういう雰囲気になって、俺は彼女の唇を奪いにいった。その華奢(きゃしゃ)な肩を抱き寄せて、濡れた前髪を指で払った。彼女の瞳は潤んでいた。キスをする前にシャワーが浴びたいと、香純さんは恥じらいながら言った。彼女が済んだら、入れ替わりで俺もシャワーを浴びた。そうして彼女が待つ部屋に足音を忍ばせて行くと、俺の上着を探る香純さんが目に入った。何故だか彼女、俺の警察手帳をまじまじと眺めていたんです」

 そこで藤川は視線を北条に向け、しかとを決める刑事に回答を求めた。
 もちろん反応はない。
 今更そんなことはどうでもいいか、と藤川はふたたび回想に入った。

「ついに彼女と交わるときが来て、俺が先に裸になり、それから彼女が脱いだ。そこで俺は見ました。彼女の腹部に赤く残る、痛々しい痣を。父親にレイプされたときについたものだと、香純さんは恨めしそうに言いました。この人を汚しちゃいけない、そう思い直した俺は、そこから先を辞退したんです」

「ほんとうに、何もなかったと言うんだな?」

 そう尋ねる五十嵐に対し、藤川の首が縦に動いた。そして、
「そんな彼女が、自分の旦那を殺めるなんて真似が出来るわけがない。俺はそう信じたいんです」
と眉間を寄せた。

「花井香純について、ほかに何か気づいたことがあったら喋っておくといい。君が彼女を思う気持ちに嘘がなければね」

 北条が温厚な調子で促してくるので、藤川は負け惜しみっぽく微笑んでみせた。

「これは真面目な話ですけど、香純さん、アダルトグッズをたくさん持っているんだって、それを俺に見せてきたんです。寂しくなるといつも、そういう物に頼ってしまうそうです。父親に犯された経験のある彼女に限ってまさかとは思ったけど、旦那が亡くなる以前からたまに通販サイトを利用して、密かに買っていたらしいです」

「君はどうリアクションしたんだ?」

 北条も真面目に聞き返した。

「いいえ、とくに、なにも」

「なるほど」

「でも、何ていうか、いつも使っているにしてはどれも新品みたいに見えたし、独りで行為に耽っている香純さんの姿を想像しようとしても、彼女の清純な雰囲気が邪魔をして、どうしてもイメージが湧かなかった。おそらく彼女は嘘を言っている」

「君がそう言うのなら、多分そうなんだろう」

 北条は聞き出す姿勢を変えないでいる。

「あとそういえば、花粉症を患っているんだと言ってたことがあったな。毎年この時季になると、市販の鼻炎薬を服用しているようです」

「それも一応、頭に入れておこう」

「俺から言えることは、大体それぐらいです」

 言い終えたあとの藤川のため息は、部屋にいた皆の耳にまで届いた。失恋したときの感傷に浸る青年のように、いまの彼はとてつもなく弱々しく見えた。
 藤川透から聞き出したいくつかの事を北条は反芻してみた。花井香純が実父に貞操を汚されたことについては、児童養護施設の職員の口からすでに知らされている。
 注目すべき点は、花井香純の腹部に残るという赤い痣のことだ。ふしだらな父親から受けた淫行の跡が、皮膚の深くにまで入り込んでしまったのだろうか。そういう意味では身体的にも、精神的にも、彼女が抱えている傷は生涯消えることがないのだ。
 それから通信販売の話と、花粉アレルギーの部分も加味しなくてはならない。
 いまの段階では一つ一つのキーワードがばらばらのように思えるが、これらをひっくるめて束ねてしまうほどの真相が、必ずどこかに潜んでいるに違いない。
 北条は得体の知れない武者震いのようなものをおぼえた。

「北条さん」

 藤川透は刑事の名前を呼んだ。
 北条は片方の眉を上げ、聞き耳を立てた。

「ほら、神楽町の通り魔事件の現場付近で犯人らしき人物を目撃したって言う女性、一人だけいましたよね?」

「彼女がどうかしたのか?」

「名前は月島麗果、たしか銀行員でしたっけ」

 まさか、と北条の勘が働いた。

「君らの組織が関与しているのか?」

「青峰由香里のときと同様、匿名で密告がありました。言われた通りのバーに大上さんと二人で潜入してみたんですが、ほんの僅かな隙に彼女を取り逃がしてしまったというわけです。まあ、その後すぐに身柄を確保して、今頃はクライアントの手に渡っているはずですけどね」

 なるほどそういうことか──と北条は脳で納得した。花井孝生の殺害現場を見られたかも知れないと思い込んだ犯人が、月島麗果の口を封じるために監禁レイプを依頼したのだとしたら、彼女が見たと言う『黒い服に黒い傘』の人物こそが真犯人ということになる。
 まず、月島麗果を買った客の居所を突き止めねばならない──北条がそう腹を据えたときだった。

「俺を泳がせてみてください」
と藤川は言った。

「下っ端の俺には客の顔も名前も知らされてませんけど、それとなく大上さんから聞き出せるかも知れない」

 花井香純の役に立ちたいという思いが、藤川のその表情から汲み取れた。
 ここはひとつ、彼のコネクションを信用してみようということで、刑事らは合意の視線を交わした。

「最後に確認したいことがある」

 その台詞を言った北条の目は、藤川の眼球を捉えている。

「花井香純の両親の所在について、彼女自身からは何も聞かされていないのか?」

「聞きましたよ。父親と母親を早くに亡くしている上に旦那まで失ってしまって、今はどこにも頼るところがないと、確かそう漏らしていましたね」

「やはりそうか。わかった。君がいま言ったことが、今後の捜査の展開を大きく左右するかも知れない」

 北条は発言の後に、デスクの凹んだ部分を、こつこつと人差し指で小突いた。




投稿者:いちむらさそり 投稿日:2013/04/28 00:20:50

13―1



 数日後、月島麗果の行方を探っていたはずの藤川透が、港近くの倉庫の中から変わり果てた姿で発見された。彼の居場所を知らせるGPS信号がそこで途絶えたので、不審に思った警察官らが駆けつけたのだ。
 死因は毒物によるものと断定されたが、直前の彼の行動から推測すると、自ら命を絶った可能性は低いのではないかと警察は判断した。
 組織の内部情報を他言した藤川透のことを、その異変に気づいた何者かが毒殺した。そう考えるのが自然だと誰もが口を揃えたが、他殺を仄めかす痕跡を見つけることは出来なかった。

 死の間際、彼は無念でならなかっただろう。花井香純という女性に溺れたが故に招いた悲劇だとしても、真犯人が誰であるかを見届けたかったに違いないのだ。

 警察署に郵便物が届いたのは、それから間もない二日後のことだった。差出人は『藤川透』である。
 中身を確認したところ、怪しげなDVDが一枚入っていただけで、手紙が添えられているようなこともなかった。
 デッキにDVDを挿入し、関係者らによる確認作業が開始された。再生画面に映し出されたのは、タイトルのないアダルトソフトの映像のようだった。全裸姿の若い男女による激しい営みが、無修正のままこちらの目に飛び込んできた。

どうやらただの男優と女優のようだ──。

音声にわざとらしさが窺える──。

 そんなふうに皆それぞれの感想を抱いたまま、男が女に挿入する映像だけが延々とつづく。女は何度もオーガズムを訴えるが、なかなか絶頂する気配が訪れないでいる。
 対する男はただ力任せに腰を振るだけで、相手を満足させようという気配りも感じられない。

 藤川透が自らの命と引き換えに寄越した物、果たしてこの映像にそれだけの値打ちがあるのだろうか。そんな白けた空気が漂い始めたときだった。
 突然、映像が乱れ、音声がぷつぷつと途切れると、さっきまでとはまったく別の映像と入れ替わってしまった。
 生活感のないワンルームの中央に、髪の長い女性が独りきり、しきりに辺りを警戒しながら座っている。
 残念ながら音声はないものの、鮮明な画質のおかげで彼女の身元はすぐに明らかになった。先日、早乙女町の公園で全裸のままで発見された、専業主婦の青峰由香里に間違いなかった。
 大上次郎と藤川透の手によって雀荘から拉致されたあと、彼女を金で買った客がここに監禁し、何らかの理由で監視カメラに映像を収めた──誰もがそう思った。

 画面の奥にドアが見える。そこが開いて、一人の男が入ってきた。目だし帽を被っているせいで人相がわからない。
 男に気づいた青峰由香里は座ったままで後退りし、二人の距離が縮まると、男が彼女に薬瓶ほどの小さな容器を手渡した。
 会話によって取引がされているようで、彼女は怖々と首を横に振る。
 そんな態度が気に入らない男は、体を揺らして苛々しだし、出し渋るようにスタンガンを手にした。本気で使うつもりはないようだが、彼女の表情には恐怖が浮かんでいて、今にも泣き出しそうに見える。
 スタンガンをちらつかせる男を前に、彼女はとうとう自らのスカートの中に手を入れ、白いショーツを脱ぎ取った。そして小瓶から透明な液体を指ですくい、陰部に塗布していく。
 男はスカートを乱暴に持ち上げ、彼女の様子を凝視しながら何事かを言っている。

 ひとしきり人妻の淫らな様を観察すると、男は満足げな足取りでドアから出て行った。
 ふたたび独りになった青峰由香里は、恐怖と羞恥に堪えながら大人しく座っている。そんな彼女に異変が起きるまで、五分とかからなかっただろう。
 固唾を飲んで映像を見守る一同の目にも、その変化は明らかだった。

 彼女はまず自分の額に手をあて、それから気怠そうに肩を上下に揺らし、太ももを摺り合わせる仕草をした。
 体に熱を感じるのか、シャツの胸元を摘まんで扇ぐと、今度は靴下を脱ぎ捨てる。 頬が紅潮しているのは化粧のせいではなさそうだ。
 今はとにかく肌を露出させたい気分なのだろう。シャツのボタンを外したあと、その美しすぎる被写体は、ブラジャーにスカートという何とも破廉恥な姿に変貌したのだ。
 カップから零れるほど肥大した乳房や、女らしい体のラインを保った所々は、およそ産後の母体とは誰も想像がつかない。

 肩を抱いたり、太もものあいだにスカートを挟んだりと、その場しのぎの行動がつづく。
 見えないものに翻弄されながら、次に彼女は四つん這いの姿勢をとった。
 催眠状態にあるような朦朧とした表情。その唇が何かを囁いた時、魔が差したように彼女の右手が自身の局部へと伸びた。
 カメラは青峰由香里の顔を捉えている。口元がゆるむたびに、下唇を噛んで自慰行為に耽る。右手はおなじ動きをくり返し、支える左手は床に爪を立てる。
 それでも物足りないのか、右手を股間にあてたまま体を返し、彼女はこちらに向かって脚を開いた。

 それはもう刑事の職務を忘れてしまうほど生々しい光景だった。日常の中にあって、しかし誰の目にも触れることのない秘め事が、こうやって隠す術もなく繰り広げられているのだ。もはや性の対象として見ずにはいられない。

 清い指が、清い膣をこねくり回し、清い愛液を吹き出させている。
 彼女はそこを覗き込み、汚らしいものを見る目で嫌悪感を露わにした。
 手首に筋を浮き上がらせ、リミッターを振り切るように自らを追い込んでいく。
 ばしゃばしゃと潮が飛び散った。
 一気に上りつめて、溌剌(はつらつ)とした肢体に痙攣が襲いかかる。
 悔しそうな表情を見せているのは、絶頂したときの彼女の特徴なのだろう。けれども燃え尽きたわけではなかった。
 膣から引き抜いた指に絡まる被膜を舐め取ると、部屋中を物色し、リビングボードの適当な引き出しを開けてみる。
 中身をひっくり返し、床に散らかった数ある物の中から、彼女はピンクローターを手にした。コードをたぐって本体を拾い、すぐさまスイッチを入れる。
 指先で振動を確かめると、ブラジャーのカップの中にそれを差し入れた。効果は絶大のようだ。
 それを無理に我慢しようとするから、鎖骨のアーチが綺麗に浮き出るのだ。
 玩具に取り囲まれた彼女は、貪欲な手つきでバイブレーターを握った。その太い胴体を愛おしく眺めたあと、目を閉じて一度は投げ捨てるが、また拾っては視線を注ぐ。

いじらしくて仕方がない──誰かがそう思ったからか、その気持ちを裏切るように、若妻のヴァギナは男性型の玩具を頭から丸呑みした。
 ひいひいと快感に歪む目元、口元。ぐちゃぐちゃに形が崩れた陰唇。ふっと表情が和らいだあとに起こる全身の痙攣。
 そうやってオーガズムに魅入られた青峰由香里の姿を、一言も発さずに見届けるしかない警察関係者たち。この映像の中にこそ、これまでの一連の事件の謎を解く鍵が潜んでいるのなら、それも仕方のないことかも知れない。
 すると再生画面の中の彼女が突然、ドアのほうを振り返る。直後にドアが開き、先ほどの目だし帽の男が入ってくると、青峰由香里に首輪とリードを施した。

 待つこと数秒──。

 六人の男らが部屋に入ってきた。彼らは、目だし帽の男が連れているペットに興味を示し、服を脱ぎ捨て、目的を果たす行動に出た。
 ほんの数時間前まで普通に暮らしていたはずの主婦が、今こうして複数の男らによって犯されているのだ。
 わずか一グラム程度の媚薬のせいで、人格までもが操作され、女性の誰もが男に狂ってしまうのだろうか。疑問は残るが、映像の中の彼女からは、輪姦を助長させる艶めかしい雰囲気が漂っていた。

 青峰由香里が何度目かの挿入を受け入れたとき、ふたたび映像が不自然に切り替わった。




投稿者:いちむらさそり 投稿日:2013/04/28 00:33:42

13―2



 清楚な制服に身を包んだ女子高校生が、不安な面持ちで立ち尽くしている。
 青峰由香里が監禁されていた部屋とおなじ造りの空間で、その少女はじっとドアの方角を見つめている。おそらく音声は意図的に消されているのだろう。
 するとドアが開き、黒色の大型犬を連れた目だし帽の男があらわれた。
 またあいつだ、と一同が感づいた。表情が読み取れない分、男の挙動に不気味さを感じる。
 犬は最初から興奮気味に尻尾を振っていて、女子高校生に近寄ると、いきなりプリーツスカートの中に頭を突っ込んだ。
 少女はそのまま壁際まで追いやられ、悲痛な表情で座り込んでしまう。
 犬がその股間を激しく舐めている。
 男が彼女に指示を出す。
 彼女は怯えながら四つん這いになり、そこに犬が重なった。人と動物による交配が成された瞬間だった。

 あまりに酷すぎる、と目を背ける者もいた。しかし映像は流れつづけている。
 まだ未成年であるにも関わらず、見ず知らずの男の欲求を満たすためだけに、一人の女子高校生が犠牲になっているのだ。
 その生々しい光景にうんざりしていた時、またもや別の映像が割り込み、そこにもやはり女性が映っていた。
 透過素材で出来た大きなバスタブの中に、全裸の若者が体を浸しているシーンだった。白い肉体が水面を揺らし、水滴がきらきらと光っている。
 その水中を泳ぐ細長い影は、彼女の手足の隙間を縫いながらぐにゃぐにゃと回遊していた。
 その動きに合わせて悶絶する女性が手にした物は、長さ十センチほどのビニールチューブだ。放心寸前のおぼつかない手つきで、彼女はそれを自身の体内に挿入した。
 膣がだらしなく大口を開けている様子がいやらしい。そして人体の構造が露わになっている現実を思う。

 彼女のそこが巣穴に見えたのか、蠢く影のうちの一匹が、胴体を波打たせながらビニールチューブをくぐった。尾ひれがぴちぴちともがき暴れている。
 彼女の視線はどこに落ち着くわけでもなく、溶かされていく意識にまかせて、うっとりと水中を漂っているようだった。もうどうなったって構わないと諦めている女の顔だ。
 その黒い生物の習性に逆らうこともできずに、膣を開放しつづける淫乱な女体。彼女もまた、これまでに経験したことのない危ない絶頂へと連れて行かれるのだろう。

 女性器に群がっているものの正体が鰻だとわかったところで、刑事の一人が吐き気を催し、退室するハプニングがあった。
 そうは言ってもこれも仕事のうちだと、残りの者で映像の結末を見届けなければならない。胃液が込み上げてくるのをなんとか抑えながら、映像が切り替わるのを待った。
 その瞬間はすぐに来た。そうして画面に収まった人物の顔を見るなり、今まで無関心を装っていた北条の眉間に、深い皺が刻まれた。神楽町通り魔事件の重要参考人、月島麗果に間違いなかったからだ。

しっかり見ていろ──わかってます──という会話が、北条と五十嵐の視線だけで交わされた。
 藤川透がほんとうに見せたかったものが、まさにここから始まるのだと、彼女が放つダークな雰囲気から予期できた。
 そして何より、今までの映像と異なったところがある。さっきまでの分が監視カメラの記録だとすれば、月島麗果の場合は、盗撮カメラで狙ったような意図が感じられる。
 どこかの病院の診察室に彼女はいるようだ。スチール製の机やキャビネットに並ぶファイル類、業務用のパソコン、ベッドや椅子なども一通り揃っている。
 仄白い照明でぼかした部屋。月島麗果はそわそわしながらそこで誰かを待っている。

 そうして一分と経たないうちに白衣の男がやって来て、すれ違いざまに彼女の肩をぽんと叩き、空いた椅子に座った。神経質な生き物だという印象だ。
 医師と患者の微妙な距離感というより、男のほうはいちいち彼女の顔を覗き込んでは、馴れ馴れしく体を触っている。

 北条は、この男はいったい誰なのだろうかと、これまでに度々登場していた目だし帽の人物と重ね合わせてみた。はっきりしたことは言えないが、両者には似ている部分があるように思えた。

 誰かが息を呑む音が聞こえた。カメラの向こうの月島麗果が内診台に乗ったからだ。自ら脚を開き、腹部を上下させて息をしている。期待、不安、その両方が入り混じった表情を浮かべ、一線を越える瞬間を待ち焦がれているようだ。
 男は鋏(はさみ)を手に構え、じりじりと彼女の下着に沿わせていく。虫も殺さないような顔の医師は、その刃先でショーツを挟み、サディスティックに切れ目を入れた。
 あられもなく下着がはらりと剥がれ落ちる。晒された女性器は美しく貝割れしており、女らしい色素を分泌させて潤って見えた。
 黒ずんだ一枚目の皮膚をめくり、充血した二枚目の皮膚を分けると、男はそこに顔を埋め、ぺろりと舐め上げた。
 彼の舌を生身に受け、月島麗果の腰が素直な反応を見せた。
 夫婦や恋人同士がする無難なプレイではなく、そこに変態要素が加わることで生まれた未体験の官能に、体中を熱くさせているのかも知れない。
 彼女の上半身は未だに清楚なままでいる。しかし下半身は別人だった。
 二人のあいだにはずっと前から信頼関係があったみたいに、彼女は医師にすべてを委ね、舌と、指と、男根とを、自身の蜜壺に導いた。
 よがり狂う若い娘と、冷徹な眼差しで淫らな行為をくり返す男。
 一刻のうちに月島麗果の容態は変化し、弓形(ゆみなり)に仰け反らせた背筋を右に左によじって、救いを求めるように何度も手指を結んで開いた。
 それを知って、白衣の男も畳みかける。繋がったまま内診台を揺する二人。

 院内セックスという有り得ないシチュエーションも手伝ってか、互いの肉体を融合させようと更に密着し、快感の上限に向かって上りつめていった。
 月島麗果の動きが止まった。
 男は腰の振り幅を加減しながら、ゆったりと射精を楽しみ、そして支配者の表情で性器を抜いた。卵子が受精してしまう可能性をも恐れない、まったく最低な光景だった。

 こんな人間を医師として認め、何ら疑うことなく世に送り出してしまった国の甘さに、刑事らも尻の穴が引き締まる思いがした。
 藤川透は、この男が花井孝生を刺したとでも言いたかったのだろうか──。

 ようやく事件の根源が見通せそうになったとき、そこで映像は終わった。後味の悪さだけが残る、なんとも骨の折れる作業だった。

「いちばん最後に映っていた白衣の男。彼に前科がないか、俺がデータベースで調べておきます」

 五十嵐が険しい顔で言った。

「そうしてくれ」

 それだけ言って、北条は部屋を出た。




投稿者:いちむらさそり 投稿日:2013/04/30 12:53:38

14



「あの男の顔にヒットするデータはありませんでした」

 五十嵐がそう報告した。

「そうか。あの映像を撮った場所がどこの病院なのか、それに男の名前、これがわからないことには調べようがなさそうだな」

 ズボンのポケットに片手を突っ込んだまま、北条は顎を怒らせて言った。
 彼らは署内の一室で、ほかの連中からの新たな報告を待っていた。
 そんな頃、すぐそばの内線電話が鳴った。五十嵐が出てみると、是非とも北条に会って話がしたいとう女性が来ていて、面会室に待たせてあるという内容のものだった。
 すぐに北条と五十嵐がそこへ出向くと、少し派手めの恰好をした若い女性が、深刻な面持ちで会釈をくれた。体の線が細いので、お腹が出ているのは妊娠のせいだと思われた。
 彼女は藤川愛美(ふじかわまなみ)と名乗った。

「ひょっとして、藤川透の奥さんですか?」

 五十嵐が尋ねると、彼女ははっきり頷いた。

「突然のことで、お悔やみ申し上げます」

 北条が丁寧に頭を下げると、次いで五十嵐がそれにならい、最後に藤川愛美が恐縮そうにぺこりとした。妊婦だからといって特別扱いされるのを嫌うのか、パンティストッキングで覆った脚を太ももぎりぎりまで露出し、流行を意識した雰囲気がこちらにまで伝わってくる。

「我々に話というのは?」

 北条は机の上で指を組んだ。

「じつはあたし、あの人の物を整理しているときに、こんな物を見つけたんです」

 藤川愛美は一枚のメモ紙を刑事に見せた。そこに手書きの文字が並んでいる。

「これ、何かの役に立つでしょうか?」

 そんな彼女の声に、北条は敢えて口を開かずにいた。メモ紙にある『木崎ウィメンズクリニック』という筆跡を、北条は脳裏に焼きつけた。

「見たところ、産婦人科病院の名前のようですが、あなたが通っている病院ではないのですね?」

 五十嵐が確認する。

「はい。そんな名前の病院、あたしは聞いたこともありません。どうしてあの人がそんなメモを書いたのか、まったく心当たりがないんです」

「彼の仕事と関係があるんじゃないですか?」

「わかりません。あの人がどんな仕事をしていたのか、詳しくは知らされていませんでしたから」

 こりゃなかなか複雑だなと、五十嵐は咄嗟に口をつぐんだ。

「奥さん」と北条が切り出す。
 藤川夫人の視線がそちらに向くと、「ご主人がこれを、あなたに」と北条は懐から何かを出した。
 それを手にした途端、彼女は手で口を覆い隠し、大粒の涙で頬を濡らした。込み上げてくる感情が、彼女の涙腺を決壊させていた。
 北条が彼女に差し出した物、それは安産祈願の御守りだった。
 しかしこれには北条が一枚噛んでいた。藤川透が遺体で発見され、彼の妻が懐妊しているという報告を受けたときすでに、北条は自分で御守りを購入し、いつかその人に手渡そうと決心していたのだ。それを夫である藤川透が準備したのだと伝えれば、彼女の気持ちも少しは癒えるのではないかと考えていた。

 頼んでもいないのに余計なことをしやがって──と藤川透本人も今頃は軽口をたたいているに違いなかった。




投稿者:いちむらさそり 投稿日:2013/04/30 13:04:45

15―1



 桜前線が順調に北上してくれれば、あと一週間もすればこの辺りのソメイヨシノも一斉に蕾がほころび、長い冬の終わりを告げてくれるはずなのだ。
 幾度も訪れた氷河期を乗り越え、ようやく就職できた新社会人たちのフレッシュなスーツ姿が、見慣れた町の風景に華を添えている。
 春が終わって夏が過ぎると、短い秋の暮れに憂う間もなく厳しい冬がやって来る。

そうやって月日の流れのように自分も風化していけたなら、どんなに良いことか──。

 歩道橋の上に佇み、自分の足下を通り抜けていく車両に目をやりながら、花井香純は思い詰めていた。手提げ袋の中には、買ったばかりの真っ赤な林檎が入っている。
 ふとして視界のはじに人影が映り、ゆっくりとこちらに歩いて来るのがわかった。背広を着た背の高い紳士だった。

「まさか、そこから飛び降りるつもりじゃないですよね?」

 真横から声をかけられた香純は、「そんなふうに見えました?」と和やかに微笑んだ。
 相手の男も冗談ぽく口を曲げている。

「犯人、捕まえられそうですか?」

「ええ、あと少しで。あなたの協力もありましたからね」

「もしかして、藤川という刑事さんのことを言ってます?」

「彼の正体を暴くことができたのは、香純さんのおかげだと思っています」

「大げさですよ」と言って、香純はくすくすと笑った。

「彼は刑事ではありませんでした」

 言いながら北条も香純とおなじく歩道橋下を眺めた。

「それに彼はもう、亡くなっています」

 そう北条が告げた直後に、香純は数秒だけ息を止めた。言うべき台詞が見つからなかったからだ。

「自害に見せかけた他殺、我々はそう見ています。あなたにも少なからず思うところはあるでしょう」

 刑事に言われ、数日前の藤川透の印象を香純は思い返した。

「まさか、あの藤川という男の人が、私の主人を?」

「その可能性は低いでしょう。我々が調べたところ、藤川透は犯罪組織の人間であることがわかりました。ですが、彼らは利益にならない仕事はしないはずなのです。つまり、何ら接点のない花井孝生氏に危害を加えたところで、そこに報酬は生まれない。警察に目をつけられるかも知れないという、リスクが残るだけなのです」

 言った北条の隣で、香純はふたたび思い詰めた顔をした。

「藤川透が何故、命を落とさなければならなかったのか。そこには必ず理由があるはずなのです。あなたのご主人についても例外ではない」

「主人は他人から恨みを買うような人ではありません」

「近親者は誰でも皆そうおっしゃいます」

「それなら、どんな理由があると言うんですか?」

 気に障ったふうに香純は刑事に言葉を投げかけた。
 北条は香純のほうに正面を向け、「あなたのご主人も一人の男だったということです。もちろん、藤川透にも当てはまることですがね」と言った。
 花井未亡人の横顔は美しく、また穏やかでもあった。その視線がゆっくりとこちらに注がれ、目と目が合った。

「こんなところでするような話ではありませんね。どこか別の場所へ行きませんか?」

「同感です」と北条は苦笑した。

「よろしければ、私がお茶を淹れますので」

「それじゃあ、お言葉に甘えて」

 微妙な笑顔が交錯した。
 おっとりしていながら、心の内に紅蓮の炎を秘めているような花井香純という女を、北条大祐(ほうじょうだいすけ)の裸眼が捕らえて放さなかった。



 花井夫妻の邸宅の一画には、ちょうど車二台分くらいの駐車スペースがあり、そこに黒いワンボックスと白の軽自動車が停めてある。黒いほうが夫のもので、白いほうが自分のものだと、通り魔事件の直後に訪れた折に香純から聞かされていたのだ。
 何かにつけて観察してしまうのが刑事の癖なのだと思いつつ、前を行く香純の清楚なシルエットを追うように、北条も花井家の玄関をくぐった。

 それぞれが故人に線香をあげ、香純が買い物袋を提げてキッチンへ向かうと、少し遅れて北条も後につづいた。

「他人に中身を見られるのは恥ずかしいので」と冷蔵庫の前で香純が言った。

「それはどうも」と北条は一つ会釈し、仕方がないのでリビングのソファに腰を落ち着けることにした。上等な座り心地がした。
 そして、どのような手順で話を進捗(しんちょく)していけばいいのかを、この短時間のうちに練り直していた。

「法事のときの残り物しかなくて、申し訳ありません」

 香純はコーヒーカップとソーサーを北条の前に薦めた。
 それに北条が笑顔で応じる。
 彼の向かいに香純も座った。

 ほんとうはブラックが飲みたいのだが──という本音を呑み込み、北条はクリームと砂糖が入ったそれを啜った。

「家の中に男の人がいるだけで、なんていうか、ずいぶん雰囲気が変わるもんですね。主人を亡くして、初めてそのことに気づきました」

「すみません。では外で話しますか?」

「いいんです。そんなつもりで言ったわけじゃありませんから」

 何に照れるわけでもなく、香純は頬を紅くした。
 ところで、と北条は話を切り出した。

「あなたのご主人は生前、ある女性と深い関係にあったようなのです。いわゆる不倫です」

 それを聞いて、香純は逡巡する素振りを見せた。

「何かの間違いです」

「信じられないでしょうけど、これは事実です。そしてその女性のことを調べたところ、青峰由香里という名前が浮上してきました。じつは彼女、孝生さんが事件に遭った数日後に、早乙女町の公園で全裸姿で発見されたのです。幸いにも命は助かりましたが、衰弱するほど乱暴されていました」

「もしかして、主人のときとおなじ犯人が」

「我々もそう考えました。答えはすぐに出ました。おそらく犯人は、孝生さんと青峰由香里が淫らな関係にあったことを知っていて、それが自分にとって都合が悪い人物」

 北条は相手の目を見据えた。香純の体が静止している。

「花井香純さん。あなたしかいないのです」




投稿者:いちむらさそり 投稿日:2013/05/01 17:36:38

15―2



 刑事の口調は柔らかだった。けれどもそこから告げられた言葉は、香純の胸を動揺させた。
 この瞬間から自分は容疑者になったのだと、いままでに味わったことのない味覚が口に広がった。いや、正確にはもっと前から疑われていたのだ。

「刑事さんがいま言ったこと、矛盾してませんか?」

「と、言いますと?」

「だって私は、主人とその女性の仲を知らなかったんですよ?それに、女の私がその相手の方を襲ったというのは、少々無理があるように思います」

 香純が言ったあと、北条は余裕の笑みを浮かべた。

「ほんとうにそうでしょうか。じつはあなたは、ご主人の浮気に気づいていたのではないかと我々は考えています。孝生さんに裏切られたと思ったあなたは、まず夫を殺害し、その次に浮気相手の青峰由香里に制裁を加えようと考えた。しかし非力な自分ではハードルの高い作業になる。そこで思いついたのが、インターネットの闇サイトだった」

「北条さんは、想像力が豊かな人なんですね」

 香純はあっさりと言った。

「不貞行為を働いた二人のことを、あなたはどうしても許せなかった。だからこそ、夫への復讐だけは自分の手でやり遂げたいと、あなたは強く誓ったのでしょう。そして計画を実行した」

 北条が真摯に言えば言うほど、いよいよ香純の顔から笑みが消えていった。

「花井孝生が殺害された日の午後十一時前後、あなたは自宅に一人でいたと前におっしゃった。ようするに、あなたにアリバイはなかったということです」

 自分の口臭がコーヒー臭いことに北条は気づいた。だが構わずに続けた。

「さらにその時間帯に、現場方向から歩いてくる不審な人物を見たという目撃情報を得ました。雨も降らないのに黒い傘を手にし、服装も上下とも黒かったと聞いています」

「そんなに疑うのなら、この家を調べていただいても構いません。黒い傘と服なんて、どこにでもあると思いますけど」

「その必要はありません。おそらくそれらは被害者の返り血を浴びているでしょうから、凶器と一緒にどこかへ棄てたと考えるのが正しい」

 刑事の指摘に納得しながらも、香純はそれをおもてに出さないように努めた。

「当然、彼が勤めていた警備会社もあたってみたわけですが、それがおかしなことに、おなじ工事現場に向かったはずの誰もが、彼が殺害されるところを見ていないと言うのです。香純さん、あなたはこれをどう思われますか?」

 そうやってずるいことを企んでいるような顔をする北条に、香純は何故だか母性本能をくすぐられた気がした。

「それは、主人が一人になる瞬間を、犯人が狙ったんじゃないでしょうか」

「我々もまったくおなじ意見です。しかし考えてみてください。孝生さんがいつ一人になるのかわからないのに、犯人は物陰に身を潜めて、ずっとその瞬間を待っていたのでしょうか。そのほうが返って目立ってしまうと思いませんか?」

「ええ、まあ」

「そこでこう仮定しました。犯人は、彼が一人になる時間帯を把握していたのです。あの日、孝生さんの死亡推定時刻である午後十一時頃、じつはほかの作業員らは彼を一人残して休憩していました。そしてそのことを彼自身が家族に話していたのなら、やはりあなたには犯行が可能なわけです」

 北条は一度、相手の様子を窺ってから、声の加減を微調整した。

「おもての駐車スペースに停めてある白い軽自動車、あれとよく似た車を、殺害現場近くで見たという証言もあります。それは孝生さんの会社の同僚の方から聞きました」

「そうですか……」

 聞き逃してしまいそうなほどか細い声で、香純は呟いた。諦めというより、こうなることを望んでいたような顔色だった。

「私がどれだけ否認しても、北条さんは私を疑い通すつもりですね?」

「もちろんです」

 北条は言いながら、手持ちのカードをすべて見せようと身構えた。

「ここで一つ確認させてください。香純さんは花粉アレルギーをお持ちですね?」

「藤川さんから聞いたんですか?」

「そうです。孝生さんの浮気相手である青峰由香里がこう証言しています。たまたま知り合った主婦に誘われて、ドラゴンヘッドという雀荘に行った。そしてそれが原因で、自分はレイプ被害に遭った、とね。彼女は最初、家族に内緒で賭事に手を出したという後ろめたさから、レイプの事実を否定していました。我々は粘りました。そしてようやく事件性を認めたとき、その主婦の特徴として、マスクをしていたと言っています。これは、雀荘のマネージャーである馬渕という男からも聞けました」

「私がそのときの主婦で、そして青峰由香里という女性をそそのかしたと、そう言いたいんですね?」

「問題はそこです」と言ったあと、北条はコーヒーで口を湿らせた。
 花井未亡人の憂い顔は、相変わらず可憐なままだ。

「彼らにあなたの顔写真を見てもらいましたが、やはりそのときの主婦がマスクをしていたからでしょう、『似ている』としか言いませんでした」

 それはそうだろうと香純も思った。

「とにかく、こうして犯人の計画通り、花井孝生には自ら手を下し、青峰由香里には闇サイトの住人によって辱めを果たすことができたのです」

「私のところに多額の保険金が下りてくることも、警察は知っているんでしょう?」

 香純が上目遣いに言うと、当然とばかりに北条が頷く。
 香純は思案する素振りをし、「私も喉が渇いたので、少しだけ失礼します。コーヒーのおかわり、お持ちしましょうか?」と訊いた。

「いただきます」

 北条は行儀良く応え、キッチンに消えていく女のしとやかな後ろ姿を見送った。その背中に悪意が漂っていたのなら、すぐにでも彼女を呼び止めるつもりでいた。だがその必要はなさそうだ。

 北条は、こういうときの自分がいちばん嫌いだった。なにかにつけて相手を疑い、プライバシーに風穴を空けてそこを徹底的に調べ上げる。その中からこちらが有利になるものだけを選別し、鬼の首を取ったつもりになるのだ。
 手柄などというものに興味はない。ただし、警察の人間による不祥事が続いている現状を見れば、自分だけは、という揺るぎないものが必要になってくるのだ。
 人命が関わっているだけに、どうしてもデリケートにならざるを得ない部分もある。
 そう考えると、自分はまだまだ刑事として未熟だな──と北条は自嘲した。

 そんなとき、キッチンに向かったはずの花井香純がまだ戻らないことに気づいた。




投稿者:いちむらさそり 投稿日:2013/05/02 15:42:34

15―3



 あれから十分ほどが経過している。
 まさかとは思いつつ北条が腰を上げたとき、変わりない姿の香純がコーヒーを持ってきた。

「今度はブラックにしておきましたから」

「それはどうも」

 言って北条は自分の嗜好を見抜かれたことに対し、女性の観察力の鋭さを思い知った。
 綺麗に見える一輪の花の中にも、蜜を分泌する花もあれば、毒を分泌する花もある。
 果たして北条はカップの中の苦い汁を一口だけ啜り、ふたたび語りだした。

「さっきお話ししたことには続きがあります。花井孝生を殺害したであろう人物を目撃したのは、ある大手銀行に勤める月島麗果という女性でした。彼女は後日、銀行窓口に訪れた女性客に相談を持ちかけられました。近いうちに大金を相続するので、その運用についての相談だったようですが、ついでのつもりの世間話をしているうちに、ホストクラブの話題が出たようなのです。まあ、そこでいろいろと話し合った末に、女性客に薦められるまま月島麗果は一軒の飲食店に向かうわけですが、なぜだかそこで犯罪に巻き込まれてしまったのです」

 香純が斜め下を見つめているので、北条はしぜんと彼女の口元に目をやった。唇の凹凸に異性を感じた。

「花井孝生の殺害現場を見られたと思った犯人が、ふたたび闇サイトを利用し、月島麗果を辱めるよう仕向けたのです。青峰由香里のときと同様にね」

「それも私がやったことに?」

「その女性客が来店したときにはマスクをしていたんですが、相談窓口に座った途端、マスクを外したようです。そこで月島麗果にあなたの顔写真を見てもらいました。花井香純さん、あなたに間違いないと彼女は断言しました」

 喋り過ぎたので、北条はコーヒーカップを煽(あお)った。そして軽く咳払いをする。

「銀行の防犯カメラの映像にも、確かにあなたが映っていました。あの女性客の話を信用したせいで、自分は乱暴されたのだ──そんなふうに月島麗果の中で、点と線が繋がったのです」

「そう思われても仕方がないですよね」

 香純は微笑した。しかしそれは無防備なものではなく、警戒心を悟らせないための作為を含んで見えた。

「罪を認めますね?」と北条は言った。

「あの人が悪いんです」と香純は応えた。

「私に隠れて、ほかの女の人と体の関係を持つなんて、妻として許せませんでした。だから私が夫を、それから相手の女性にも復讐したのです。現場を見られたのは迂闊でした。だからあの銀行員の女性に罪はありません」

「そうおっしゃった上でお訊きしますが、あなたがアクセスした闇サイトの住人、彼らの顔や名前をご存知ですか?」

「いいえ」

 香純は表情を曇らせた。

「じつは、ある犯罪組織のメンバー数名がサイト管理を担当していたわけですが、そのうちの一人は大上次郎という男、そしてもう一人が藤川透だと判明しました」

 まさか、という台詞を香純は呑み込んだ。

「それじゃあ、藤川さんが彼女たちを襲ったんですか?」

「そうではありません。彼らはただの仲介役です。青峰由香里と月島麗果を客に引き渡し、そこから先は客の意思に委ねるわけですから、レイプの実行犯は客の男ということになります」

 それを聞いて、香純は少し気を緩めた。それはつまり、さっきまで気が張りつめていたということだ。
 藤川透のことを思うと、時々こういうことが起こる。たとえ犯罪組織の人間だろうが、彼の本質は別のところにあるのだと、香純はそう思えてならなかった。

「失礼なことを窺いますが」と北条は前置きした。

「香純さん。あなた、父親にまつわる暗い過去を持っていますね?」

 刑事の向かいで、ついに来たか、と香純は体を萎縮させた。

「我々は、『聖フローラル学園』という児童養護施設を訪ねました。あなたが幼少の頃にあずけられていた場所です。残念ながら、当時の園長はもう亡くなられていましたが、園長からあなたの話を聞いたという女性職員に会えました。そこで初めて知りました、あなたが実の父親から性的暴行を受けていたということを」

 聞き手として、話し手として、もっとも辛い状況に直面していた。

「更にそのときの行為が原因で、あなたの腹部には醜い痣が残ってしまった」

 北条の視線が気になり、香純は自分の腹部に手を添えた。

「ところがここでもう一つ、新たな事実が浮上してきたのです。あなたは周囲に、早い時期に両親を亡くしていると言っていた。しかし女性職員は、父親はともかく、母親は健在だと明言した。その証拠に、あなたの母親から毎年のように寄付金が届いていると、その封書を我々に見せてくれました。これについて、あなたから言えることがあれば、是非とも聞かせて欲しいですね」

 香純は無言のままでいたが、微かに首を横に振った。まさしく喪中の未亡人の姿だった。

「父親は行方不明で、母親は生きている。これを踏まえた上で、我々はもう一度今回の事件を振り返ってみました。ここでふたたび登場するのが、藤川透です」

 瞬間、香純の顔が悩ましく歪む。その名前を耳にするだけで、体がかっと熱くなるのだ。

「あなたは、藤川透が刑事であると疑わないまま、彼を自宅に招き入れ、ついにはその肌さえも露出した。もちろん性交を果たすためにです。しかし彼はそれを辞退した。家族のある身なら、それが当然と言えるでしょう。それでもあなたは退かなかった。インターネットの通信販売でアダルトグッズを購入していることを告白し、実物を彼の目に触れさせた。淫らな女だと印象づけるためにです。ほんとうのあなたは、そこまで貧しい心の持ち主ではないと我々は信じています」

 北条はこのとき、脇の下にじんわりと湿気を感じていた。追い詰めていたはずの容疑者が、挑むような目でこちらを見ていたからだ。




投稿者:いちむらさそり 投稿日:2013/05/03 22:55:34

15―4



「ほんとうの私のことなんて、何も知らないくせに」と香純が口答えしてきた。

「言い方は古いけど、火遊びをしたくなることだってあるんだから」

「あなたが火遊びか。まったく想像がつきませんね」

「使い古したおもちゃを私がどこに棄てているのか、それだって調べてあるんでしょう?」

 付き合いきれないなと思いつつ、北条は頷いた。

「全裸の青峰由香里が見つかった早乙女町の公園、あそこは以前から不法投棄が酷かったと、彼女を発見した主婦が話していました。その主婦にもあなたの顔写真を見せました。そうしたら、卑猥な形をした玩具を投棄しているあなたの姿を見かけたことがあると、そんな台詞が返ってきました。どうです、これで満足ですか?」

 そんな刑事の軽薄な一語一句が気に入らなくて、香純は思わず腰を上げた。北条の目線の高さに、香純のくびれのあたりがくる恰好だ。

「私の性癖を教えてあげる」

 それは異世界からの囁きのようだった。北条は瞬きもできずに、ただ前だけを直視していた。
 女物のカーディガンが見える。前閉じのボタンが外され、花柄のカットソーが覗くと、躊躇うことなくそれがたくし上げられた。
 ブラジャーに包まれた乳房、そのすぐ下に、赤い林檎が浮かび上がっている。いや、それこそが近親相姦を物語る忌まわしい痣だった。
 肉体は若く美しいままなのに、花井香純にふさわしくないものが沈着していたのだ。
 女はさらに色を仕掛ける。スカートに指をかけるだけで、それはいとも容易(たやす)く脱げ落ちた。そこは女の恥部であり、面積の狭いショーツで覆われていた。
 片脚ずつ折り曲げながらショーツを下ろしていくと、淫らな花園が姿を現した。裂け目は下を向いているので、北条の位置からでは確認できない。

「待ってください」

 北条が沈黙を破った。
 けれども香純は従わなかった。後ろのバッグに手を入れ、ふたたび取り出した手には黒いディルドを握っていた。喉が渇いたと言って中座したときに仕込んだのだろう。
 歪(いびつ)な男性器をかたどった彫刻のようにも見えるそれを椅子の座面に立てると、下半身のそこに狙いをつけ、わなわなと腰を落としていった。

「もうやめましょう」

 そんな北条の制止も虚しく、香純は異物を受け入れた。
 あうっ──という香純の儚げな肉声が聞こえた。そこに収まるのが当然であると思えるほど、雨天のようにぐずついた香純の膣は、その黒い具をしっかりとくわえていた。
 いじめて欲しくて仕方がない──香純の表情はそういう種類のものだった。いまにも泣き出しそうだ。
 体を上下に揺すり、豊かな液を垂らして、そこから聞こえる音もしだいに熟れていく。

ねっとり、ねっとり。
ねち、ねち。
くちゅ、くちゅ。
ちゃぷ、ちゃぷ──。

 快楽を訴える声が、香純の口から漏れている。このままでは、彼女はほんとうに果ててしまう。そこで北条はこう言った。

「香純さん。あなたにとって最も残酷な事実を、僕の口から言わなければならないようですね」

 そう言われたことで、香純の動きが大人しくなった。刑事が告げようとしている次の言葉を待っているのだ。

「あなたはすでに、子宮を失っている。違いますか?」

 香純は息を呑んだ。彼と視線を合わせることもできず、自分の振る舞いが惨めに思えてきたのだ。
 痛いところを突かれたというより、『もうこれ以上、自分を偽らなくてもいい』という慰めの言葉にも聞こえた。
 じわりじわりと込み上げてくる感情が、香純の目頭を熱くしていく。そして下半身に挟まっている物が床にごろりと転がると、そのままの体を椅子に沈ませた。

「あなたは、子宮を全摘出する大手術を経験した。そうなってしまったのも、外でもない父親から受けた暴行が原因だった。損傷したままの子宮を放置すれば、今度はあなた自身の命に関わる恐れがあった。つまり、あなたに選択の余地はなかったのです。その手術を執刀したのが、木崎ウィメンズクリニックの木崎智也(きさきともや)という医師だった」

 ぐったりとうなだれ、剥き出しの両脚を内股に畳んだ香純に向かって、北条なりに優しく喋った。

「手術自体は別の大学病院で行われ、無事に終わった。しかし木崎智也はその後、ある物をクリニックに持ち帰っています」

 数秒の沈黙があって、「それは、摘出したあなたの子宮です」と北条は言った。
 一瞬、部屋の温度が下がったような気がした。

「もちろんこれは違法にあたります。ですが、それを望んだのは香純さん自身だ。そうしてかけがえのない物を失ったショックから、あなたは恐ろしい行動に出たのです」

 そう言いながら北条はキッチンの方向を指差した。

「もし、あなたの体の一部が、あの冷蔵庫の冷凍室に眠っているとしたら、あなたはある意味、魔女よりも恐ろしい人だ」

 その言葉は、香純の耳にも届いているはずだった。しかし香純は感情がうまく表現できないでいた。ただ涙を流すだけの、表情のない人形のように見えた。

「木崎智也の存在を我々に知らせてくれたのも、藤川透でした。彼が亡くなった直後、警察宛てに一枚のDVDが届きました。送り主はやはり藤川透でした。収められた映像の中に、青峰由香里や月島麗果を凌辱する木崎智也の姿がありました。あなたの手術に携わっていた医師は、そうとう歪んだ性癖の持ち主なのでしょう。だからこそ、あなたが子宮を要求したときには、彼は快く引き受けたのだと思います。そうしてあるとき、自宅の冷凍室に保管してあった子宮を、夫である花井孝生に見られてしまった。これは何だと、しつこく問い詰められたことでしょう。僕は彼に同情します。小さなクーラーボックスの中から出てきたのが、グロテスクな朱色をした肉片だったんですからね。それが食用の精肉だったなら話は別ですが、まさか人間の臓器だとは彼も信じなかったでしょう」

「私が喋りました。孝生さんには、ほんとうのことを全部告白しました。そうしたらあの人、悪趣味な嫁なんて、子どもが産めない妻なんていらないって、外で浮気をするようになったんです。だから……、だから私……」

 遠く彼方へ懺悔するように、香純の声は天に呑まれていった。




投稿者:いちむらさそり 投稿日:2013/05/03 23:04:35

15―5



 このとき北条は、玄関先に人の気配があるのを感じた。そして何気なくそのこと香純に悟らせ、彼女を玄関に向かわせた。
 そのあいだに自分は、彼女がした淫らな行為の痕跡を消しておく。

「お母さん」という声が間もなく聞こえてきた。香純のものだ。
 北条がそちらに向かうと、五十嵐に付き添われた婦人が目に入った。花井香純の母親、三枝伊智子その人だった。
 さすがにこの場面では化粧を控えてはいるが、それなりの支度を整えれば、十は若返りそうな気がした。
 母と娘は互いの体を支え合い、涙混じりの言葉を囁きながら仏間へ上がる。二人そこで泣き崩れると、香純は、どうして、どうして、とくり返すばかりである。その背中に北条は言った。

「花井孝生を殺害したのは、三枝伊智子さん、あなたですね?」

 とうとう迎えたこの瞬間に、三枝伊智子の呻きが大きくなった。
 直後に北条のポケットが震えた。

「俺だ。……うん、……そうか、……わかった、……ご苦労さま」

 北条が携帯電話を仕舞うと、隣の五十嵐が視線をよこしてきた。

「三枝伊智子さんのアパートを捜索したところ、我々の睨んだ通りの物が出てきたそうです。血痕の付着したナイフ。それと黒い傘、黒いウインドブレーカーとズボン、それらにも血液が付いていたとの報告を受けました」

 沈む二つの背中に北条が告げた。
 向こうで話しましょう、と五十嵐が皆を促した。
 四人がリビングに集うと、三枝伊智子が先に口を開いた。

「悪いことをするのは私一人でじゅうぶんだと、娘に言い聞かせました。あの父親も悪かったんです。一族の血を汚すような行為をするから、香純がこんなふうになってしまって、結局私の手も汚れてしまいました。もうおわかりだと思いますが、いちばんの被害者はこの子です。どうか救ってやってください。お願いします」

 頭を下げる母親のそばで、香純は自分の口元をハンカチで覆った。だいぶ白髪も増えてきたのだと、母の老いを思った。

「伊智子さん。あなたの夫である三枝靖晴(さえぐさやすはる)さん、つまり香純さんの父親ですが、ずっと行方がわからないままだと我々は聞いています。捜索願は、十年以上も前にあなたが出している。一体どこにおられるんでしょうか。生きているのか、あるいは──」

 そう言った北条の目が熱を帯びていることに伊智子は気づいた。
 香純が袖にしがみついてくる。黙秘は無意味だと自覚し、その痩せた唇を動かした。

「なかなか働いてくれない主人でしたから、昼も夜も私が仕事をしていました。香純がまだ小学生の頃です。あるとき家に帰ってみると、主人と娘が布団の上で揉み合っていました。酒に酔った主人が、娘を犯していたのです」

 話を聞いていた香純は堪らなくなり、声を枯らしながら席を外した。
 それを追うでもなく、伊智子は続けた。

「そんなことが何度かあって、私は役場に相談してみました。そのときこそ反省の色を見せていた主人でしたが、私の目の届かないところでは、やはり乱暴をくり返していたのです。警察に届けることも考えましたけど、逆恨みされるのが恐くてできませんでした」

 こんな現実があっていいのかと、五十嵐は顔を険しくした。

「日に日に弱っていく香純の身を案じ、私は決心しました。主人が林檎を好きなのを知っていたので、それを利用しました。毎日欠かさず主人に林檎を出しました。あの人は飽きもせずに林檎を食べつづけました。そうしてある日、主人は口から泡を吹いて倒れ、そのまま息絶えました。私が林檎に仕込んだ微量の薬物が、主人の体内で致死量にまで蓄積されたのです。私と香純の目の前で亡くなったあの人のことを山中に埋めたのも、私です」

 これまでの積年の思いを吐き出したことで、伊智子の表情からは毒が抜けて見えた。そして香純が戻ってくると、二人して手を取り合った。
 すべて終わったのだ。後のことは警察に任せればいい。
 そんな空気が迫りつつあったとき、突然、香純の身に異変が起きた。膝から崩れ落ちる様子がスローモーションで再生されているように、それは北条らの目にも明らかだった。
 一度は床に手を着き起き上がる意思を見せたが、それも適わず、白雪姫の如く美しい肢体を伏せていった。
 五十嵐がその顔色を窺ったとき、彼女の鼻から血がつたい落ちた。
 北条は咄嗟にキッチンへ向かい、ダイニングテーブルの上に真っ赤な林檎を見つける。かじったところがまだ新しい。
 ちっ、と舌打ちをしてからの行動に猶予はなく、誰からともなく救急へ通報したり、呼吸や脈拍を確かめたりと、すべてが早足で繰り広げられていった。
 けれどもそこに居合わせた誰もが、とてつもない無力感に苛(さいな)まれていただろう。
 血の気の引いた香純は、ただただ、母の腕の中で無言を守っていた。




投稿者:いちむらさそり 投稿日:2013/05/03 23:13:09

16



 娘の名誉を守る為に、三枝伊智子は二つの命を絶った。
 一方の花井香純は、二人の女性を罠に嵌めはしたものの、誰の命も奪わなかったのだ。
 つまり香純が起こした一連の行動は、すべての疑惑の目を自分一人に向けさせる為のものだったわけだ。
 それから、藤川透のバックにある犯罪組織の影は、大上次郎もろとも行方を眩まし、そのネットワークさえも遮断された。今回もまた、その存在を公にすることができなかったのだ。

「でも良かったですね」

 晴れ晴れしたふうに五十嵐は言った。

「あの母子のことか?」

 北条が返す。

「あのときはどうなることかと思いましたけど、花井香純が気を失った原因が、多量の鼻炎薬を一度に飲んだことによるものだったなんて。俺、焦っちゃいましたよ」

「俺もだ。もしあれが毒性の強い薬だったとしたら、俺たちは刑事失格だな。どうだ、反省会でもやらないか?」と北条は手でお猪口(ちょこ)を真似てみた。

「いいっすね」と五十嵐の目が輝いた。

 彼らは病院の中庭を歩いていた。これだけ暖かい日がつづけば、相当量の花粉が飛んでいるだろうと北条は思った。
 それでもこうやって普通でいられるのは、自分の免疫力が強いか、もしくは鈍感な構造にできている証拠なのだろう。
 くしゅっ、と五十嵐がくしゃみをした。

「まさか、五十嵐も花粉症か?」

「こう見えて俺、あちこちで噂になってるんですよね」

「いい噂を聞いたことがないんだがな」

 北条に言われ、五十嵐は顔を酸っぱくして笑った。



 薬品臭い部屋の中にいた。そこで行われたのは、堕胎手術と子宮摘出手術だった。全身麻酔によって眠っているはずなのに、脳は覚め、内臓をいじくり回す誰かの手の感覚すら鮮明だ。
 やめて欲しいと言うつもりでいたが、それは言葉にならなかった。声が出てこないのだ。
 そのうちに果物の甘い芳香が漂ってきて、ついでに懐かしい匂いまで混じるようになった。

 花井香純が病室のベッドで目覚めたとき、隣に母親の姿を見つけた。まだ記憶がぼんやりとしていて、自分たちがここにいる理由がわからない。

「お母さん」と香純は言った。
 おもてを上げた三枝伊智子は、目尻を下げながら腰を伸ばし、「これ、食べるわよね?」と手元を香純に見せた。
 右手に果物ナイフ、左手には林檎が乗っている。
 香純は頷いたあと、刑事はどこにいるのかと訊いてみた。すると母親は、外に待たせてあるんだと応えた。加えて、香純がこの病院に搬送されるまでの出来事も話した。

我が子を見舞うことができるのも、きっとこれが最後になるだろう──。

 そんな名残惜しい思いを表情から消し、伊智子は林檎を剥いていく。そして半月状に切った実を小皿に盛り、香純に差し出した。
 窓から入る日差しが、二人の影を床に落としている。
 それはまるで、白雪姫と魔女という、因縁の組み合わせを描いているようだった。



おわり


引用元サイト:
ナンネット|官能小説の館
引用元掲示板: ノンジャンル 官能小説 > 果葬(かそう)

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